◆山口の祇園社〜祇園・菜香亭に想う

 往古のとき釈尊のために建てられた寺院「祇園精舎」のあった京都の八坂神社一帯は地名も「お祇園」と呼び、淡交社版京都大事典によると「東山区八坂神社門前の四条通りと南北西側一帯を祇園町または祇園と呼び中世室町時代からは茶屋町となった」とある。

     清水へ祇園をよぎる桜月夜
        こよい逢う人みなうつくしき

 明治・大正期の歌人与謝野晶子のこの歌は、祇園と呼ぶ町の情緒を偲びなつかしい。
 ところで山口にも祇園はある。市史によると上竪小路東側の築山館跡地には祇園社があった。それ以前の1369年に大内弘世が勧請して京都八坂神社が分請されて以後、築山館一帯は祇園と呼称されるようになった。
 藩制期の防長風土記に次の記述がある。「早朝、笠鉾の行列が堂の前を発し、祇園の社前に至り楼門の庭に舞う。つづいて宮野より250人、矢原・平井より250人、小郡・秋穂より250人と約750人が出て道場門前より祇園社へと船鉾を引く」とあり現在では八坂神社から竪小路を経て駅通りの御旅所に至る道筋が恒例になっている。今年の秋、山口市は大内氏による開府以来650年の節目を迎える。
 山口盆地に街区が形成されたのは周防・長門を基盤とする守護大名大内氏が、西部中国地方から九州北部に及ぶ守護大名として君臨し、京都に並ぶ都市圏の造成があって以後のことである。
歴史は幾百星霜の盛衰に彩られてきた。しかし「祇園・菜香亭」の名称は650年に及ぶ山口のあゆみを伝えてきた。


(平成22年10月日発行第18号掲載)