◆菜香亭の洋食

 『横浜には今もかすかに、もはや東京が失ってしまった明治が残っている。』とは作家の池波正太郎が横浜の牛なべ屋を随想「食卓の情景」に書き残した一節である。
 その明治がガラス障子や百五十畳敷の大広間を持つ菜香亭には今も整然と残された。
 慶応大学創立者の福沢諭吉が1867(慶応3)年に「西洋衣食住」に西洋料理解説を述べて以後、明治初年から東京、横浜、神戸、長崎、函館などに次々と西洋料理店が開店した。山口でも菜香亭第3代の斉藤泰一氏が東京上野精養軒で修業し1887(明治20)年の7月1日に菜香亭内に洋食室を開業した。
 当時の菜香亭西洋料理メニューが昨年改装した襖の下張りから数点発見された。
 それは・雉のカツレツ・エビフライ・カキフライ・小鳥のグレエー・鳩シチュー・ビステッキ・オムレツなどで客には高等中学(現山口大学)の教師であった隈本有尚(夏目漱石作「坊っちゃん」の山嵐のモデル)や西田幾多郎なども居たが、伊藤博文、山県有朋をはじめ政財界人も多く来店して洋食を食べている。
“降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男 ”の句に続く大正・昭和の時代も菜香亭の大畳の上に重ねられてゆく。山口の歴史空間にピリオドは無い。
   ※中村草田男(なかむらくさたお:俳人 代表句「万緑の中や 吾子の歯 生え初むる」)


(平成23年3月31日発行第20号掲載)