◆七卿の都落ち

 1863(文久3)年8月18日、三条実美、錦小路頼徳ら7人の公卿が討幕の計画に敗れて長州に落ちのびた。小学館版日本史大辞典に詳細な記述がある。
『さんじょう−さねとみ(三条実美)幕末尊攘派の公卿、明治時代の政治家で少佐から尊王攘夷運動に参画、勅使として14代将軍徳川家茂に攘夷督速の朝命を伝えるなど活躍したが文久3年の政変により七卿の都落ちの一人として長州に逃れる。しかし王政復古に際して帰京し、新明治政府の副総裁など要職につき太政官制の最高位太政大臣となり、さらに明治18年内閣制実施後は内大臣をつとめ明治24年に亡くなっている。』
 七卿とは三条実美、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世道禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、錦小路頼徳(よりとみ)、沢宣嘉(のぶよし)の公卿7人である。
 七卿の長州藩西下記録が残存する。
  1863(文久3)年 8月21日 兵庫着湊川楠公墓に詣で海路長州へ
             8月26日 周防三田尻に到着。
             8月27日 三条実美湯田に移る。
            11月 8日 三条実美 萩に出向 大寧寺に詣ず。
            12月 2日山口湯田に帰着。
  1864(元治1)年3月26日 6卿 下関に向う。豪商白石正一郎邸泊り。
               28日亀山八幡安徳陵に参拝。
             4月 5日 山口に帰着する。
             4月25日 錦小路頼徳赤間関の旅路にて病死す。
                    後日、周防吉敷郡宇野令赤妻に葬る。
            11月15日 実美卿以下山口を発し17日長府に至り功山寺に入る。
  1867(慶應3)年12月9日 5卿の官位を復し入京を許可。
 明治維新動乱期を山口湯田で送日した七卿遺蹟の碑は、1926(大正15)年に井上公園に現存し、三条実美氏の直筆扁額「快作楽」(かいをたのしみとなす)は明治初年に開業した菜香亭の大広間に現存し亭暦の証となっている。


(平成24年6月25日発行第25号掲載)