◆亭名の由来

 現菜香亭の150畳敷大広間への入口には亭名ゆかりの扁額があり、井上馨の鮮明な筆跡が印象的となっている。
 明治17年8月、当時発行されていた防長新聞に次の記述がある。
=菜香亭の亭名は、参議井上公が主人斎藤幸兵衛の氏名より取られたもので、その額面は公の筆にてよくできている。このほか同亭には参議山県公の額もあり此の亭は山口における第一等の料理茶屋にて、これまで勅任株としては申すまでも無く、すべて貴顕の下向なりし時は常に賄を仰せつけられ、その料理と器物に関しては山口県の八百善と評せられている=と。
 菜香亭の亭名由来を揮毫した井上馨は天保6年(1835)に山口の湯田に生れ、通称は聞多(もんた)、号は世外としていた。
 藩校の明倫館を卒業後には江戸へ遊学して剣術やオランダ語を学習したあと、万延元年(1860)に藩の小姓役となり藩主と行動を共にするようになる。
 その後文久3年(1863)12月に、伊藤博文らと共にイギリスのロンドンに留学したが、四ヶ国連合艦隊による馬関(下関)攻撃を知り伊藤と共に急ぎ帰国して講和条約のために尽力するが不調に終わった。
 山口・萩両市でハタノ・エンタープライズを経営する波多野義憲氏は、このほど長州FIXE英国留学150年を機としてイギリスを視察し、ロンドン大学のアルコム総長とも対談したことをレポートし、冒頭にスピーチ力、発信力こそこれからの日本人には不可欠としている。
 元治元年(1864)井上馨は藩庁で会議のあと刺客のために重傷をうけたが立直って伊藤、山県と共に国政へ尽力してゆく。
 菜香亭の亭名を付した伊藤・山県の掲額と共に井上馨の扁額は明治の料亭を具現している。


(平成26年1月10日発行第31号掲載)