◆初代総理大臣伊藤博文と菜香亭〜大広間の扁額に寄せて

 “一家天地自春風”150畳敷の大広間に掲額された来館総理大臣のうち、明治の初代総理大臣伊藤博文の額である。
 伊藤博文は山口県熊毛郡束荷村(現在は光市)に1841(天保12)年に出生し、10才の頃父に連れられ萩城下に移り若年奉公をしながら時の松下村塾で学ぶようになる。
 当時の日本の人口は2千5百万人程度であったが萩は城下町として面目を保っていた。
 当時の長州は平民を含む志願者で編成された奇兵隊という組織を持っていた。その組織を充実させたのは主として松下村塾の出身者であった。高杉晋作、木戸孝允等の上級藩士と共に伊藤博文、山県有朋など下級武士仲間も活躍するようになり、階級なしの軍隊は農民、町人、足軽などで編成されて明治新体制へのたくましい原動力となる。中国地方は日本列島の中ではもともと人口の多いところだが、住み慣れた場所を離れて防長二州に来た人たちには士的エネルギーが充実していた。
 伊藤博文が現実主義的な政治行動を開始したのは1863(文久3)年、藩命でロンドン留学中のことだった。井上 馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上 勝、それと伊藤の長州ファイブと呼ばれる一行である。伊藤と井上馨はロンドンで長州藩の関門海峡での欧米艦隊との対立を知りイギリス艦で急ぎ帰国するも徒労に終わった。
 伊藤はヨーロッパで学び、明治憲法をつくり、政堂の総裁で活躍して総理大臣になったが明治末期に朝鮮半島で凶弾に倒れる。
 東京上野の精養軒で修業し第3代菜香亭主人の西洋料理で伊藤博文は友人たちとワインを飲んだ記録が残されている。


(平成27年1月10日発行第35号掲載)