菜香亭の歴史
明治天皇の行幸賄(まかない)方
明治5年、明治天皇は初めての行幸として、西国九州を巡られました。山口県では下関[1]に3泊されました[2]。
そのさい、齊藤幸兵衛は賄い方を命じられ、斎戒三日ののち、任務を全うし、後日、赤間関支庁より礼状をいただきました[3]。
「山口町人 斎藤幸兵衛 へ
御巡幸のさいに、賄い方を申しつけたところ、夜昼尽力し、 急場の御用弁を滞りなく忠節を遂げ、殊勝であったことを承った。
壬申〔明治5年(1872)〕 六月(赤間関支庁印) 」
行幸にさいして、急きょ山口より呼び寄せられたことがわかります。
齊藤幸兵衛はそれだけの腕前だったと考えられます。
[1]下関
下関は昔、赤間関(あかまがせき)、または馬関ばかん)と呼ばれていました。
ここは齊藤幸兵衛にとって悲しい縁のある土地です。
幸兵衛の弟、齊藤千熊幸郷(さいとう ちぐま ゆきさと)が、長州藩の諸隊の一つ「膺懲(ようちょう)隊」の一員として、元治元年(1864)の四ヶ国艦隊との馬関戦争において、戦った場所なのです。弟はそのとき激戦地の前田砲台で傷を負い、萩の自宅で療養中に亡くなりました。
きっと下関で幕末の往時を、わずか8年前のことですが、回想したのではないでしょうか。
幸郷の墓は山口竪小路のお寺にあります。
[2]初めての行幸
明治天皇が下関行幸されたときの様子を、「太政官期 地方巡幸資料集成 第2巻 明治5年九州・西国巡幸」(柏書房 1997)と「明治天皇記 第二」(宮内庁 1969)から抜粋し、読みやすくして紹介します。
明治5年6月10日 晴
午前8時 明治天皇の御艦が早鞆瀬戸に入った。諸艦は、飾旗・祝砲等の礼を行った。
門司沖にて端艇に移って下関に航行し、9時、西南部町大小路波止場より上陸。
県参事中野梧一、権参事久保断三の奉迎を受けた。
陛下は金飾りのある舟形の御帽子に、胸に金飾りのある御洋服を召していた。
前に鉄砲を担いだ百人が、後にも百人がつづいた。
馬にて赤間町を通り、阿弥陀寺町の旧本陣(伊藤九三宅)の行在所に着。
伊藤家では他所へ移って明け渡していた。御手当は少しもいただなかったという。
本陣の練塀のうちに御仮屋で高い御物見(納涼台)ができていた。他に御便所も作られた。
市中ではいたるところ、軒燈を掲げていた。
奉迎の人が、海上は船を浮かべ、岸上は立錐の地がないくらいだった。
天子様を拝するのに立ったままでよいということで若い者は立って拝したが、老人はみな道筋に土下座して拝した。
地元の人の篤志の中尾太助以下6名が共同して奉迎の人のために寝食場を裏町教法寺に設けた。
当時12歳の林平四郎が行在所に御給仕に召され、食事などを次の間へ運ぶ役をした。
行在所へ出た御給仕は8人いた。
御給仕の服装は紋付袴だった。着物は袂のある紋付き、それに羽織を着たが、御運びの時は羽織を脱いだ。
天皇の御蚊帳は白い、生絹の御蚊帳だった。
御寝は木製の寝台だった。
11日 酷暑
午後4時、前原一誠を萩より召して親しく勅語をたまい、晒布2匹たまう。
次いで山口県正権参事、さらに小倉県参事伊藤武重、浜田県権令佐藤信寛を召見する。
この日、山口県各地より産出する偕老同穴・平家蟹・魚貝の類ならびに硯材・珍花・薬草などを天覧に供す。
魚類は、行在所の庭前に長さ三四間ある小舟二隻を置き、潮水を湛えて放った。
陛下は大層お気に召し、船相撲よりこのほうが余程御興になったようだった。
誰かがタコに灸をすえたのでタコが暴れ、それをご覧になった陛下がお笑いあそばしたという。
また、内膳司料理掛松本義路が真魚箸の包丁を天覧す。溌剌たる生魚を俎上に載せ、真名箸を取って自在に調理した。
12日 昨日同様の暑気
午前7時 騎馬で出門、侍従長河瀬真孝、宮内少輔吉井友実を従え、大倉埠頭より端艇(バッテーラ)に乗船して日進艦に移って六連島灯台を行幸。午後1時、下関に還幸。
午後、市民が阿弥陀寺町海上に小艇を三艘つないで、そのうえに四本柱の屋形のある土俵を設け、相撲を演じて天覧に供す。
負けた者は自ら海に投ず。行在所庭丘に新設した納涼台よりこれを覧す。
13日
午前7時、騎馬にて行在所を出門、大倉埠頭より出立。
[3]赤間関支庁 礼状
赤間関支庁からの書状文 翻刻
山口町人 斎藤幸兵衛
- 右
- 御巡幸之砌賄方
- 申付候處夜白尽力
- 急場之御用弁
- 無滞遂忠節神妙
- 之段承届候
壬申 六月(赤間関支廳印)
赤間関支庁からの書状文 書き下し文
山口町人 斎藤幸兵衛
右
御巡幸の砌、賄方
申し付け候処、夜白[ひる]尽力し、急場の御用弁
滞り無く忠節を遂げ神妙の段、承り届け候。
壬申 六月(赤間関支廳印)