山口市菜香亭|山口県山口市

菜香亭の歴史

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料亭を始めたのは

料亭菜香亭を始めた初代主人は、齊藤幸兵衛(さいとう こうべえ)という人です。
齊藤幸兵衛について、明治40年(1907)に、息子の泰一(たいいち)が、肖像画[1]を作りました。画は紫峰、賛は麻生亮[2]
この賛に、幸兵衛の人となりや人生について書かれています。それを参考に簡単にまとめますと、

齊藤幸兵衛は、城下町萩の油屋町の齊藤長兵衛の長男として天保13年(1842)に生まれました。幼名幸槌。戸籍上は甲兵衛。
藩の膳部職(ぜんぶしき、台所方)にをつとめ、藩主毛利敬親に伴い、山口竪小路に移住しました[3]
明治2年から竪小路で割烹(もしくは中河原で旅人宿)を営んだところ、たいそう繁昌しました。
明治5年、明治天皇の下関行幸のときは賄い方を命じられ、よく全うし、表彰されました。
明治10年西南戦争に御用達として従軍したのち、帰郷して八坂神社境内の邸を買い取り、料亭齋幸を始めました。
その後、元勲井上馨が来亭されたときに、「菜香亭」と命名いただきました。
妻ムメ。子は、長男甲兵衛(二代目主人)、次男長蔵、三男徳蔵、四男泰一(三代目主人)、長女ユキ、次女キク。

[1]齊藤幸兵衛肖像画書き下し文 []内は注釈。文章ごとに改行。

君の名は甲兵衛、 天保十三年[1842]十一月十六日巴城[萩]に生まれ、岩崎氏二女武末子[むめこ]を配す。
維新の際家を携へ鴻城[山口]に移り竪小路に住まふ。
父祖の跡を襲ひて魚を鬻[ひさ]ぐ側ら割烹を営むに、顧客常に楼に満つ。
因りて更に亭を野田街に起つるに、 結構宏大にして客数百人を以て可なりとす。
井上伯為に匾[へん]して曰く菜香亭、善く斎甲の二字を取るなり。
明治二十四年[1891]七月十三日病没す、享年五十。
諡して曰く仁空碩翁幸道居士。
君の人と為[な]り恂然として沈毅、好く人の為難を救ひ困を賑[すく]ふ。
而して口は未だ嘗て毎[つね]に出入りせる貴顕縉紳の門を言はず。
拮据すること二十有余歳、以て今日の隆盛を致すなり。
曾て鳳輦赤間関に行幸するに、君特に選ばれて賄方と為る。
斎戒三日、克[た]へて其の任を完[まっと]うす。
市庁為に賞状を賜はり、聞く者以て栄えと為[す]なり。
四男二女有り。
長鶴蔵、次子長蔵已に亡く、 三男清蔵理学士たり。
富山県に奉職するも亦た逝く。
四男泰一嗣ぐ。
長女雪池田氏に嫁し、次女菊浮田氏に嫁す。
泰一君の遺像を携へ来たりて銘を請ふ。
恰も余東都発程の時逼[せま]りて、思ひを構ふるに遑[いとま]あらず、 唯概略のみを記し以て与ふ。
銘に曰く、

眼光俊秀にして 胸懐豊富たり
賙救するに吝しまず 勤倹固く守れり
自らは割烹を業とし 東西研究す
経営すること廿春 顧客頻々たり
縉紳踵を接し 汝の嗣人を利さん

明治丁未五月念一日 麻生亮撰幷題印 印

  • 齊藤幸兵衛肖像画賛 原文

君名甲兵衛天保十三年十一月十六日生巴城
配岩崎氏二女武末子維新之際携家移鴻城住
竪小路襲父祖之後鬻忽測営割烹顧客常
満楼因更起亭于野田街結構宏大可以客数百
人井上伯為匾曰菜香亭善取焉斎甲之二
字也明治二十四年七月十三日病没享年五十
謚曰仁空碩翁幸道居士君為人恂然而沈毅好
為人救難賑困而口未嘗言毎出入貴顕縉紳之
門拮据二十有余歳以致今日之隆盛矣曽
鳳輦行幸于赤間関特選為賄方斎戒三日克
完其任市庁為賜賞状聞者以為栄矣有四男
二女長鶴蔵次子長蔵已亡三男清蔵為理学士
卒族于富山縣亦逝四男泰一長女雪嫁池田氏次
女菊嫁浮田氏泰一携君之遺像来請銘恰余逼未
都発程之時構思不遑唯記概略以與焉銘曰

眼光俊秀 胸懐豊富 賙救不吝 勤倹固守
自業割烹 東西研究 経営廿春 顧客頻々
縉紳接踵 利汝嗣人

明治丁未五月念一日 麻生亮撰并題印 印

[2]麻生亮

写真術を専攻し、山口後河原に麻生写真館を開きました。明治41年、県内の名所の写真を集めた「防長名蹟」の編著者となりました。実家は九州の資産家といいます。亮は、山口県上流社会の交際家で、骨董の鑑識と漢詩を得意としていました。 (参照:「防長之人物 上の巻」)

[3]山口竪小路に移住

文久3年(1863)4月16日、藩主毛利敬親は、攘夷実行の為、藩庁(藩の政治を行う役所)を、萩から山口へ移しました。これを「山口移鎮(いちん)」といいます。以後、山口の町が長州の政治の中心となり、県庁所在地であることの遠因となります。
齊藤幸兵衛も、このとき、萩から山口に出てきたといわれています。

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