山口市菜香亭|山口県山口市

菜香亭の歴史

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ロシア軍将校滞留 - 新聞記事より抜粋

日露戦争が終わる間際、ロシア軍の捕虜が日本各地に作られた収容所に分散して入れられ、山口にも収容されました。
料亭菜香亭では、将校を収容することになりました。
料亭で配布されていた、五代目主人の書いた『菜香亭由来』に、「日露の大戦のあと畳を裏がえしてロシヤの捕虜を収容した」とありましたが、残念ながら写真も関係資料もありません。
そこで当時の地元の新聞・防長新聞(県立山口図書館所蔵。ただし所々欠けている日付あり)の記事より、主として俘虜将校についての記事を現代語に意訳して、そのときのことを下記に紹介します。
俘虜を収容している間はやむなく料亭菜香亭を閉じることとなり、かわりに今小路に菜香亭支店を出していました。

明治38年(1905)

  1. 1月1日 旅順要塞司令官ステッセリ、日本軍に降伏を申し入れる
  2. 3月10日 奉天を日本軍が占拠

3月14日付 新聞記事(以下同)

  • 山口に収容するロシア国捕虜は、将校25名
  • 従卒25名の予定が、さらに兵500名増加のうわさである。

3月16日付

  • その筋の人が語った。
    「戦争において敵は敵国の国家で、その国民を敵とすべきではない。俘虜は敵の戦闘力をそぐ目的で収容するもので、これを敵視すべきものではない。ゆえに戦闘力の自由を失った者に対して憎悪してはいけない。むしろ彼らの薄命に対して同情を表しえる範囲内で博愛的人道をもって遇するこそ文明国民の度量というものである。おうおう敵国を憎むあまり俘虜を敵視して言語形容をもって侮蔑し、はなはだしいことには土砂を投ずるなどの行為をする地があることを耳にするに、国民の感情に関する重大なる事件なれば県民たる者はふかくこの点に留意し、過誤失態がないようにすべきである。」

3月24日付

  • 陸軍大臣は俘虜の自由散歩および民家に居住することを許す規則を発表した。

3月25日付

  • 昨日、山口警察署が、俘虜収容所付近の在住者を召喚し、その心得方および火災の注意などについて口達した。

3月26日付

  • 一昨日、山口県知事の名において、
    「俘虜に対して十分の同情と敬意を表すべし、俘虜に侮蔑の言語をなし不快の念を惹起させるようなことがあれば県民の名誉を傷つけるだけでなく、我が帝国の威信に関しても甚だ大なるものがあるので、県民は篤くこの趣旨を体感し、失態の行為がないよう期すること」
    という告諭が、なされた。

3月28日付

  • 俘虜を収容する各寺では板囲いや電灯架設など準備が整った。
    各寺の配当人数は下記の通り。
    • 瑠璃光寺、龍福寺、法界寺 各100名
    • 洞春寺 200名

3月31日付

  • 捕虜兵500名は明日到着する予定。

4月1日付

  • 捕虜兵到着は4月3日に変更。

4月2日付

  • 捕虜兵500名以外に、将校50名従卒50名を山口に収容することが確定した。
  • 祇園社内菜香亭および伊勢小路来島亭を収容所にひきあてることになったので、昨日よりその設備に着手した。

4月5日付

  • 昨日、山口に収容される捕虜のうち、兵士500名が到着した。
  • 午前3時45分、列車11両に乗って三田尻駅(防府駅)に到着し、トイレ休憩。
  • 午前4時50分、小郡駅(新山口駅)到着。
  • 社宅前の運動場に整列。篝火三か所あり。ここで朝食をとった。
  • 午前6時20分、つめかけた群衆のなかを三列になって行進。警戒の任に当たる警察官が大変多い。
  • 俘虜は18歳から40歳すぎまで。給養不十分にみえ、軍帽茶褐白の防寒外套など垢じみて見苦しい。
  • 収容後の俘虜の様子は、よく規律を守り、喧騒はない。
  • 瑠璃光寺、龍福寺、法界寺、洞春寺の4ヶ所の収容所に対し、通訳は2人しかいないので、通訳は多忙で大変な様子。

4月5日付

  • 菜香亭および来島亭に収容すべき俘虜将校は今日明日中に到着のはず。

4月6日付

 
  • 菜香亭に第一俘虜将校収容所、来島亭に第二俘虜将校収容所という表札が掲げられた。
  • 菜香亭は広間を真ん中から白い金巾の幕で区画し、所々ふすまで室を分かち、それぞれ寝台の用意をした。これに将校従卒の計18名。
  • また新館2階建ての広間にも同様にして22名の将校従卒が収容できるようにされていた。
  • 来島亭も同様設備で、大広間に将校15名、従卒15名収容予定。
  • 俘虜将校は本日到着予定。

4月7日付

  • 予定されている俘虜将校50名
  • 従卒50名のうち、将校43名が午前五時、小郡駅(新山口駅)に到着した。
  • 俘虜将校の階級は中佐3名、一等大尉3名、中尉9名、少尉28名。俘虜将校の乗った列車は
    • 岩国
    • 箭内
    • 田布施
    • 下松
    • 徳山
    • 三田尻各駅
    に到着したが、前回のごとく群衆が混雑することはなく、平日同様で、警戒の警官も拍子抜けの様子だった。
  • 今回の列車は一等列車で便所付き。ゆえに前回のように降車してトイレに駆け込む騒ぎはなかった。
  • 小郡駅で降りると俘虜将校は珈琲を喫してしばらく休憩した。
  • 小郡からは「ガタ馬車」に五人ずつ乗って菜香亭まで向かった。途中、黒川の茶店前で小憩しただけだった。
  • 到着した俘虜将校のうち27名が菜香亭に入った。残り16名は菜香亭から徒歩で来島亭に入った。
  •  将校は兵士の野卑とは異なり、なんとなく紳士的態度が見られた。
  • 兵士はところかまわず大小便をやりっぱなしだが、将校は野道の傍らでも放尿することなく、必ず便所を使った。この点では日本の紳士の方が一段下である。
  • また、彼らは先天的交際上手で、警衛の将校警官にむかって温顔に何かしきりに話しかけたが、その言葉を分かるものがいなかったので何を話したかあきらかではないが、手真似で問いに答えると非常にうれしがった風を見せた。
  • 各収容所は設備が出来ていないので湯田温泉に1週間に1度、1人約10分間のわりあいで沐浴する予定。

4月8日付

  • 俘虜将校の中でフランス語ができるものが最も多く、次いでドイツ語で、英語は一人もいなかった。
  • 俘虜将校の服装は交戦中のことゆえ上等ではないが、色合いは江戸錦絵でみるように兵種によりさまざまで、ちょっと目先が変わっている。そして地質は極上物らしい。長靴は例のロシア皮の製作で見事なものだ。
  • 俘虜将校は来るとすぐ、買い物がしたいから外出させてくれとねだっている者がいた。当分は許されぬ方針らしく、しかしいずれは他並みに外出許可が出るであろう。
  • 収容事務所で酒保志望者の身元調等をやっているところだから、いずれ酒が飲めるようになるだろう。
  • ある将校は、自由に市内の買物できるようになったら、見かけで高く売りつけられないか心配だと話した。
  • 龍福寺内に医療所が設置されており、法界寺の俘虜傷者
  • 病者が軍医の診察を受けた。
  • 暢気(のんき)はロシア人の特性ではあるが、俘虜将校の中には戦敗を恥じて憂鬱なものがいるとおもいきや、さにあらず、彼らは白く清いテーブル掛けに覆われた食卓の上にビール瓶とコップと磁製の煙草の灰落を置き、それを囲んで中佐も少尉もいりまじってビールを飲み、煙草を吹かし、嬉々談笑していた。
  • 菜香亭の新館2階の窓から、野田神社参詣の戻りや、野遊び帰りの婦人たちがみえる。それを見つけると勲章でももらえるほどの功績にあたるような騒ぎで、なにかチャンプンチャンプンしゃべりながら同僚に報告する。そして数人がつれだってドタバタ2階から駆け下りて垣根からそっと婦人を熱心に眺めている。ロシア人にとって夫人はそんなに可愛い大事なものかしらん。
  • 俘虜将校の到着日に、俘虜見物で菜香亭の前に立って、垣の内から半身を現わしていた俘虜将校をみた田舎の婆さんが言った。
    「ロシア人はちっとも西洋人と変わりませんね。」

4月9日付

  • 午前、警戒兵士つきそいで香山園(瑠璃光寺五重塔前)に将校を運動させたところが、将校は喜んで、にこにこ愉快気に春を楽しんでいた。
    午後は兵士が香山園で運動した。
    今後1ヶ月に2度くらい、香山園で運動させるとのこと。
  • 洞春寺収容の俘虜で流行病疑似患者がいたので山口衛戍病院に収容された。
  • 日本の俘虜委員の一人が俘虜将校に挨拶した。
    「なにぶん片田舎のことで万事設備がおもうようにできませんから、定めてお困りであろう。」
    すると将校は手を振って、
    「どういたして、決して不満の点はありません。こんな結構な家に収容されたのは、つまり天帝の恵みによるものであります。」
    と、深く感謝の意を表した。
    また、将校は、
    「食物に砂糖が足りないのでまずい。今少し滋味がほしい。」
    と、ぜいたくを言ったので、委員の将校が諭した。
    「郷国妻子団らんの間にもちいる食膳にくらべたらもちろん物の数に入らない。しかし互いに陣中で困苦欠乏であったことをおもったら、たいそう滋味ではあるまいか。」
    俘虜将校は失言を謝ったという。
  • 俘虜将校が来たのがちょうどロシアの宗教上の大切な祭日だったそうで、これまで着ていた肌着の替わりに新しい物をもとめて祭事をしたいと望んだので、商人を指定して持ちこませてみたが、だいぶ肥満で格好の品がないというのでその日はそのまま過ごし、翌日洋服屋に特別注文をした。
  • 下士卒以下で収容後に国元に通信したものは一人もいないが、将校は四五人がただ「無事」とだけ電報を発したそう。

4月12日付

  • 防寒服姿の俘虜将校は、昨今の暖かさに身が蒸すようでたまらないから別に衣服を支給してもらいたい、といっているそうだ。
  • 俘虜の賄(まかない)は当分請負だが、いずれ自炊させる予定。
    将校は西洋料理で、兵士はパンを加えて、日本兵士の給養の経費に準拠することになっているから、大食のかれらには思う存分滋味を食わすことはむろんできない。
  • 酒保の販売品で売れる日用品は、靴刷毛、靴下、櫛、化粧石鹸、赤カタン糸、白カタン糸、黒カタン糸、状袋、ペン、ペン先、鉛筆、インキ、墨、手帳、刷毛、和洋手ぬぐい、鏡、洗濯石鹸、針、上靴、ハンカチ、歯磨き粉、煙管、草履、靴、楊枝、紙、襦袢、股下。
    飲食物では、コンデンスミルク、堅パン、珈琲入り角砂糖、果物、ココア、砂糖、牛肉缶詰、花菓子、平野水、紙葉巻煙草、牛乳、ラカン、ビスケット、刻み煙草、バター、鯨缶詰、鯛缶詰、菓子、食パン。
  • 昨日、将校7名(一等大尉1名、二等大尉2名、中尉2名、少尉2名)と従卒50人が小郡駅で下車し、14台の馬車で午前8時半に菜香亭と来島亭に着いた。
  • 酒保などで金銭の必要が生じたとみえ、山口支金庫でロシア通貨を日本通貨300円に引き換えたそうだ。
  • 昨日は俘虜の兵士や将校が代わる代わる湯田温泉に入浴のはずだったが、雨のため中止となった。
  • 4月9日、留守師団長の真鍋斌(あきら)中将が軍隊検閲を兼ねて俘虜収容所の視察に来た。
    師団長はまず第一俘虜将校収容宿舎である菜香亭を慰問し、訓示を与えた。
    「余は当地方の軍務を統轄せる師団長真鍋中将である。当地の収容所視察のため来れるを幸いに汝らに一片の訓示を与えんと欲す。
    汝らは今回の戦闘により当地に収容されることとなれり。汝らは敵国の俘虜となれることを定めて遺憾とする。なるべく余もまた一個人として深く汝らに同情を寄す。しかれども、これは戦争における自然の結果でいかんともすべからざることであるゆえに今後汝らは我が法律規則を遵奉恪守し衛戍司令官及掛官の命令を従順に服従して過誤失態無きを期せねばならぬ。もとより我に於いては法規の許す範囲内においては可及的汝らに自由を与え将校たるの名誉を留保するに吝ならざるべしといえども汝らにしてもいやしくも法規に触るることあらんか其罪の軽重大小を案じて相当の刑罰を加えて仮借する所あらざるべし。かくては汝ら一身の恥辱なるのみならず汝ら祖国の名誉を毀損するに至るべければ深く骨に銘じて忘れるべからず。飲食起居のこと風土人情の相異する汝らを満足せしむるべき充分の給養を与ふることを得ざるべし。されど是れを戦地の困苦欠乏のことに想到せば忍んで得ざるの道理あらざるべしと信ず。なお終わりに臨んで一言すべきは汝らつねに摂養に注意し、切に衛生を重んじ、以て平和克復のさい健康の身体を以て祖国の元首および父母妻子に見ゆるあらんことを望む」
    それに対してロシアの古参中佐が、
    「我々はパンの分量の少なきを悲しみ、料理方にいつも変化なきを恨む」
    とだけ、発言があった。
  • 来島亭で真鍋留守師団長が同様の訓示を与えたところ、古参の俘虜中尉が、
    「今や閣下の慰問を拝し、特に我らに対し懇篤なる訓辞を垂れ給いたるは、我らの大なる光栄にして深く感謝の耐えぬところである。如居間相戒飾して閣下の訓示にもとるなからんことを期すべし」
    と答えた。立派な挨拶だった。
  • 各収容所構内における俘虜散歩区域があまりに狭少なので、今後は哨兵を彼地此地に立たして構外の或る区域を限り自由散歩を許す方針がその筋で検討されている。
  • 俘虜将校は外出を許されて、県庁前から亀山公園方面を散歩して、すこぶる満足の様子だった。
    規則上は月2回というが衛生の点から当分の間は規則外に郊外散歩を許すこともあるらしい。

4月13日付

  • あれだけたくさんの俘虜が山口に来ているが、郷里に電報したのが数名というのは、世間はきっと妻子も忘れてのんきにやっているからであろうと考えるだろうが、「山口に居て無事」とだけ電報を発しただけでも電報料が25円というのを聞くと、懐中の寒い兵士には無理だろう。

4月14日付

  • 収容所前でわざと足を止めて中をのぞきこむような者はビシビシと叱りつけてよいが、通りがかりに無意識に顔が収容所に向いたからといってすぐに「コラコラ、あの方に顔を向けるな」と恐ろしい剣幕で噛みつくのは残酷であろう。

4月15日付

  • 4月13日は俘虜全体に散歩が許され、湯田温泉へ出かけた。これを見ようとした野次馬が多かった。
    温泉は野原湯(※湯田御茶屋のあとをついだ、かつての湯別当野原旅館)。
    上湯のほうはそうでもないが、壺湯のほうは藍光っているので入ろうとしない。係員から深くはないと示されても信じない。ようやくに三人の勇者が恐る恐ると入ったところ、浅かったのでどんぶりと飛び込んだ。上の流し場で洗うときは湯を杓でかけあい、流しあっていた。
    留守師団長に食事で文句を言った中佐は、他の将校兵士が毎日でも入浴させてもらいたいと喜んでいるにもかかわらず、ひとり傲然と、
    「我々は一人一浴の習慣を有しているから、他と混浴するなぞはおもいもよらぬ」 
    他の将校どもが勧めてもついに入浴しなかった。
  • 今から十日ばかりするとロシア国国教の大祝祭日に相当するそうで、俘虜将校連は一昨日洋服屋やら靴屋やらを招いて晴れの仕度の注文をしたそうである。軍服を注文する者もあれば、商人服を注文する者がある。靴は、長靴が値段が高いので、短靴を注文したのが多いそうだ。
  • 菜香亭の俘虜将校中に、すこぶる快男子の一等大尉がいる。彼は靴注文のとり、委員の某大尉をつかまえ、まっさきに足の寸法をとった中佐を指さして、
    「君、聞いてくれたまえ、かの中佐は男が長大だから足も自然に大きい。中佐殿の靴が5円するならこちらは計算上3円ですむ道理ではないか。」
    委員の大尉は笑いながら、
    「なるほど君の足は小さいがしかし足の格好が悪いので割に高いのだよ」
    「否々、これは靴足袋を二枚重ねて穿いているからで、その証拠にみたまえ、この二枚を取り除いたこの足の格好の良い所を。」
    「どうも格好がよいとは言えぬ。」
    「君がそんなに強情を張るなら目にもの見せてやるものがある。」
    といって、気色ばんで二階にあがって赤や白の派手な靴足袋を穿いてとんで下りてきて、
    「さあ大尉、この足でもまだ格好が悪いか。」
    足を叩いて自ら大笑したので、委員の大尉もつりこまれてドッと笑ったそうである。
  • 4月13日、菜香亭の俘虜中尉1名が腸カタルにかかり、山口衛戍病院に収容された。

4月19日付

  • 昨日、希望者は外出できるというので、菜香亭からは将校14名
  • 従卒14名が香山園に散歩した。
    香山園では一人の将校が、日露会話書を繰りながら衛兵を招いて、
    「花、花。」
    という。みればツツジのつぼみがほころびかけていて今にも咲こうとしていた。その美しき枝を折ってほしいということらしい。係員が小さな枝を折ってやると、また日露会話書を繰って、
    「花瓶、花瓶。」
    花瓶はないかということらしい。
    「花瓶は買え。」
    と答えると、そうかとうなずき、さもうれしげに枝をさげて帰った。
  • 俘虜は軍服を着ているのでロシア人とわかるが、これに日本人の服を着せたら、日本人と区別がつかないほど似ている。将校の一人は韃靼人あると名乗った。

4月20日付

  • ロシア人は酒が好きだが、酒は禁止している。酒保でいちばんよく彼らに売れるのは、パン、砂糖、夏みかんで、夏みかんに砂糖をまぶしてはムシャリムシャリと食べている。煙草は、旭、大和、山桜など、洋風ではなく日本葉煙草を愛用している。
  • 旅順の俘虜は、旅順要塞司令官ステッセリが御用金を分配したので、一兵卒に至るまで金貨をチャラつかせている。
    奉天の俘虜は、それとはちがってお金がないようだった。

4月22日付

  • 昨日、俘虜が湯田温泉へふたたび行ったが、もはや珍しくないようで野次馬はいなかった。

4月23日付

  • ロシアでは将校には裕福な給与を与えている。一方、兵卒は2ヶ月で45銭と、脱走が多いのも無理からぬ。
    俘虜へは日本政府より士官6円、上長官10円を毎月給与している。下士には1円、兵卒50銭。将校からは不平が出るが兵からは不平が出ない。
  • 飲食物以外でもっともよく売れたのは、大阪あたりでロシア人向けに大きく仕立てたシャツで、その次は石鹸ということだ。
    下士官以下はカルタや楽器を売ってくれと注文が多いがその筋が請求を許さぬそうだ。売れるつもりでいた歯磨き粉はちっとも売れない。ロシア兵は歯を掃除しないようだ。
  • 山口衛戍病院に入院した菜香亭収容の俘虜中尉は昨日全治して退院した。

4月26日付

  • 俘虜将校が願い出た復活祭準備請願のうち百円立替払いが断られたので、ちょくちょく市中にその買い物にでかけている。
  • 祝祭の儀式をやるのは菜香亭の俘虜将校だけで、来島亭収容の俘虜将校はおもうように金が集まらなかったのでこみいった儀式はやめにしたそうである。
  • 在東京日本正教会主教ニコライから、復活祭に用いる鶏卵2個宛を各俘虜に分配するそうで、当地だけでも1千2百個、全国にいきわたらすのは10余万の多数になる。また、収容所に宛てた依頼状には、祭典用鶏卵を茹で紅色に染めることは俘虜自らにさせると書いてある。

5月2日付

  • 4月29日は耶蘇の復活祭。翌30日は復活蘇生祭である。
    29日午前9時、香山園に俘虜将校下士卒500名が集まった。
    同園入ってすぐの広場に卓を重ねて祭壇を設け、これに十字架を安置した。燈明の蝋燭は樹木に挿したり結びつけて点火した。
    祭壇の前に将校は並び、下士卒以下は円形を作って立った。
    日本正教会から派遣された山縣司祭が祭文を読み、ロシア人の詠隊が讃美歌を歌った。そして人匙ずつワインをすすり、午後2時頃、式は終わった。
    4月30日午前0時、菜香亭の俘虜将校が同亭内に祭壇を設け、祭事を行った。
    同日午前8時、香山園に菜香亭以外の将校下士卒が集まり復活祭が執行された。本来は午前0時に行うものだが、夜中に外出が許されないので、やむなく行われた。

5月5日付

  • 菜香亭収容の「スクウオールツアツ」中佐が、故国に電報を送ろうとした。しかし1語2円80銭もするので節約を重ねたために行先不明で電報が戻ってきて、ぜっかくの投資が無駄になった。
    中佐は怒って、運動場が少ない、食事が不味い、塀を高くして人を馬鹿にするななど、八つ当たりした。
  • 俘虜将校20名、従卒20名が久留米に転送される予定。収容所の数を増やすと取締上面倒が多いし、経費も影響があるから。また山口の収容は狭いことから夏の衛生上の心配という理由もある。
    しかしロシアでの将校の給与は兵卒100人に相当するお金を本国から送ってくることから、将校の方を収容した方が山口の町にとっていいとの意見もある。

5月9日付

  • 5月6日、俘虜下士卒の一部が、午前2時八坂神社に集められ、福岡収容所へ転送された。
    転送のことを伝えられると、一同は意外な面持ちで、我らはこの地を去りたくない、決して他にやってくれるな、というのをやっとのことでなだめすかしたそうである。
  •  同日午前3時、将校20名従卒20名が八坂神社に集められ、人力車に乗って、これも福岡収容所へ送り出された。
    食事のことで文句を言った将校と、八つ当たりした将校は、懲罰のために移動させ得られると思い込んで心配していた。番号によって転送するので別に意味のある事ではないと説明されて安どしていた。
    山口で多大の満足をしているので移動したくないという将校が多くいた。

5月13日付

  • ロシア本国から宗教歴史地理小説雑誌などなど書籍を100冊ほど送ってきたので、5月11日から12日にかけて各収容所に分配された。
  • 俘虜将校が到着したときは満州の野で長期間さらされた服を着ていたので、みるからにあわれな感じがしたが、最近は日本からの給与とフランス国領事の貸与金で、洋服や靴を新調し、チックを髪やひげに塗りつけ、みるからに男ぶりがあがっている。

5月16日付

  • 俘虜から1週間に1度祭式を営みたいとのことだが、のべつまくなしやられたら取り締まり上困難なので、まず月1回と定まったそうだ。
    一昨日がその祭事だったが、前夜の御待夜には将校一同は菜香亭に集合して厳粛な祭事を営み、一昨日は香山園に将校下士一同が香山園に集会して熱心に祈ったが、ポーランド人
  • ユダヤ人その他異宗教の者は加わらなかった。
  • 5月13日、佐藤陸軍々医監が山口俘虜収容所の衛生状態を視察した。佐藤軍医監は、衛戍病院入院の者はその病院で、他の者は菜香亭に集めて診察した。また、視察は、菜香亭と龍福寺を視察した。
    佐藤軍医監の見たところでは、当地収容所の設備は遺憾なく整頓し、とくに将校収容宿舎(菜香亭)はほかの地方にあるものより立ちまさっているとのことである。
    俘虜に与える食事も佐藤軍医監みずから手にとってみられ、これなら俘虜も満足に違いないといわれた。事実、彼らは満足しているのである。

5月21日付

  • 今後は散歩回数を増やすそうである。
  • 雨が少ない国から来たので、なぜ日本はこんなに雨が降るのでしょうと愚痴をこぼしている。

5月24日付

  • 昨日、俘虜将校は宮野の常栄寺の雪舟庭を遊覧した。通常は観覧料徴収のところ、住職の好意でとらなかった。
    庭作の方法や風流気のないものには妙を感ぜぬであろうが、閑雅遊水の仙境に遊ぶ心を起こさせたらしく一同深く嘆称して、観覧料を出してもいいからぜひ幾度もつれてきてくれと頼んだとのこと。

5月27日~28日

  • 日本海海戦

5月28日付

  • 昨日午前、俘虜将校は野田神社境内を散歩し、嬉々として半日を過ごした。
  • 俘虜の湯田温泉沐浴は木曜日と定まっている。俘虜は、亀山や香山園の散歩はむろん楽しみだが、湯田行に超した愉快はなく毎日指折り次の定日を待ちわびている程だと話している。

5月30日付

  • 俘虜将校らにビールと生葡萄酒だけは飲用が許可されたところ、一同「ウラー」と絶叫して鯨飲しているそうだ。
  • 各収容所の俘虜自炊場工事の外部は両三日中に落成するも、内部悉皆の落成は三週間を要するとのこと。

6月3日付

  • これまで俘虜の買い物は酒保に限られていたが、今後は、本人の望みであれば時々市中に伴い店舗で買い物をさせることしたそうだ。

6月7日付

  • ロシアには地震脈がなく、先日初めて地震にあったときの驚きは並大抵のことではなく、一同色を失って駆け出した。
    菜香亭にいる某中佐の如きは階段を二つ三つずつ一度に飛び降りて命からがら外に転げ出たところはすこぶる滑稽だった。
    震動が止んだあとも一同が、
    「山口というところはたいそう結構な地と心得ていたが、こんな恐ろしい所だとは知らなかった。」
    と、身震いして容易に屋内に戻らないので、助手がこんこん説明して聞かしてやった。
  • 日本海海戦でバルチック艦隊がほとんど全滅したことを俘虜将校に説明したところ、彼らもバルチック艦隊の必勝は期してはおらぬと見え、
    「敗北はしたでしょうが、それでは日本の海軍もよほどの損害を受けたでしょうね。」
    と、反問したので、水雷艇3艘が犠牲になったのみと伝えると、
    「数の上から計算してバルチック艦隊を全滅さすに日本艦隊に今少し多大の損害がなくてはならないわけですが。」
    と、いかにも腑に落ちぬ様子で、首をひねっていた。
  • 祝勝の国旗行列や提灯行列を俘虜兵士が
    「日本の祭りはたいそうにぎやかですね。」
    と、面白そうにみていた。
    日本海海戦の海戦の勝利の祝いだと言ってきかすと、あれほどの騒ぎをするのだからバルチック艦隊全滅は本当のことかもしれんと大いにしょげていた。
  • 一昨日、俘虜一同は野田神社境内で散歩を試みた。
    将校中十二名は、初めて市中の買い物に出かけて、八木雑貨店、若竹雑貨店で香水、香水吹、西洋剃刀、象牙製コップ、鏡敷布そのほかいろいろなものを購入して帰ったそうである。

6月8日付

  • 各俘虜収容所炊事場工事の中で、洞春寺と瑠璃光寺の分が先に竣工したので昨日からその二か所の俘虜は自炊を始めた。
  • 本日は耶蘇昇天祭であるから俘虜将校下士卒一同は午前中香山園に集会して厳粛な祭典を挙げる予定。

6月14日付

  • 俘虜の自炊は、原料を渡す際に一定の範囲を超過せぬかぎりはその志望によっていろいろの差し繰りをしてやる方針であるから、なるべく彼らの意見を調べてその意向を満足さすことに努めている。それで、
    「誠に善い都合になりました」
    と、深く喜んでいるそうだ。
    菜香亭の将校の自炊は、本職でない従卒が料理して食わせるのではあるが、至極上塩梅で、将校らは肉汁なぞを見ると、
    「お金はかかっているかはしりませぬが、前のよりこのころのほうが百倍美味い。」
    と、話しているようだ。

6月21日付

  • 17日当日とその前夜は俘虜将校一同は菜香亭で、浄土真宗の御待夜というべき祭式を執行し、翌降臨祭日には将校下士卒一同香山園で儀式を行う予定であったが、雨が降ったので、洞春寺内で行ったそうだ。
  • 来山中の柴留守第五師団参謀等が各収容所を慰問した。各総代はいずれも熱心に感謝の挨拶をしたそうだ。
  • 佐官には「セル」地、尉官および準士官には麻織地、下士以下には浅黄木綿の夏服を給与し、帽子は佐尉官に「ロスマーク」形の帽子、下士以下には鳥打帽が給与された。贅沢になれた将校は別にありがたい風ではなかったが、下士卒以下はたいそう喜んでいた。
  • 俘虜が来てから山口の町に落ちた金は、ざっと見積もって1ヶ月2千円だろう。大した潤いに違いない。
  • 俘虜将校3名が、歯病のため、大殿大路にある林歯科医院に長い間通っていて、ようやく終わったので治療代を払ったところ、ロシアではバカ高いのに、日本ではなぜこんなに安くやるかと不思議がっていた。

6月24日付

  • 巻煙草、ハンカチ、シャツ、ズボン下、新聞雑誌、祭事に用いる木製染色の卵の嵌め外し、小さな十字架など様々な品をそれぞれ美しい慰問袋にいれて総数400点がロシア本国から送られてきたので、配布の手続きを行ったそうである。
  • 菜香亭、来島亭両収容所の俘虜将校数名は所員通訳に引率されて、昨日一昨日と、午前8時、八木
  • 阿部の雑貨店その他おいて種々の買いをして帰った。
  • 陸軍省からこのたび収容所取締りの任にあたる憲兵軍曹1名上等兵2名が着いたとの事である。

7月5日付

  • 連日の雨つづきだったがようやく晴れたので、久しぶりに将校下士卒一同、所員に率いられて香山園に出かけ、数時間を愉快におくった。
    将校は例によりしきりと数両の自転車を得意げに乗り回していた。
  • 俘虜将校十数名は昨日午前、職員通訳らとともに市街の店舗でいろいろな買い物をして帰舎した。
  • ロシア人は野菜を生のままで食べる習慣がある。しかし夏期衛生のうえから禁じたところが彼らは恐慌ひとかたならず、ぜひ生野菜を食わさしてほしいと嘆願に及んだので、事情を斟酌し、隔日に生野菜を少しずつ与えることになった。彼らはすこぶる喜んでいるそうだ。

7月12日付

  • 陸軍経理局出仕一等主計正が一昨日来山して俘虜収容事務所を訪れ、そのあと菜香亭と龍福寺の宿舎を臨検して給養の情況を仔細に調べ、午後広島へ出発した。
  • 過日、八坂神社の祇園祭の神輿渡御は、隣接している菜香亭俘虜宿舎の将校が、
    「何事たるや。」
    と、尋ねるので、氏神の祭典であることを話したら、一人の将校が見物を望んだが、別に格別珍しいこともないと説き聞かせて思いとどまらせた。
  • 来山中の真鍋留守五師団長らは、一昨日、各俘虜収容宿舎を視察した。
  • 数日前、俘虜収容所に大梱二十個が届いた。ロシア国赤十字社前県委員長バラショフから当地収容の俘虜将下士卒に慰問のために送ったものだった。靴、毛布、外套、手袋のたぐいであった。すべてが冬物なので、いますぐ用には立たないが、本国からわざわざ送ってきたので、みな喜んでいた。

7月22日付

  • 菜香亭の俘虜収容宿舎は、八坂神社に近接しているので、祇園祭の神輿渡御の御還幸の混雑々踏に心を動かしたであろうとおもったが、ほとんど知らぬ顔ですごしていた。宗教上の観念もあろうが、この祭り騒ぎに縮小の意味が含まれていると憶測して、わざと冷静をよそおったのではないか。
  • 過日の暴風で、収容所の被害が、菜香亭が板塀2ヶ所
  • 窓ガラス10枚
  • 電球1個、法界寺が屋根が破損して雨水侵入畳4枚を腐らし、来島亭では煙突及び屋根、洞春寺では壁屋根などがいづれも少しずつ破損被害があった。19日から修理に着手し、今日には落成のはず。
  • 彼らの同胞も、彼らに慰安を与えるために新聞雑誌祈祷書経典をほとんど毎日俘虜収容事務所に送ってくる。新聞雑誌は本国から送ってくるが、祈祷書経典は東京のニコライから送ってくるのが多いそうだ。
  • 俘虜将校の中には、暑気に向かうにつれて、日本人の瀟洒とした涼しげな服装を見るにつけ、自分たちの服がなんとなく窮屈に熱く感じられるので、ついに日本服の注文を思い立った者が五六人あって、数日前に所員に伴われて中市町の八木呉服店に行った。浴衣をあれこれと選んだのを見ると、欧米人の性癖として華美なものが多かった。所員が、
    「日本では女か芸人、下等の人物でなければそんな華美なものは用いぬ。」
    と、説明すると、芸人婦女子の風俗を擬するは我々軍人の面目に関すると、いずれも滋味なものを買った。
    それで浴衣はすんだが、帯を買う段になって縮緬絽其他色々取り揃えて出して見せたが、浴衣地の反物より帯のほうが数倍高いのに驚いて、着物と帯締めがそんなに違っては釣り合わぬと、安物の夏帯を買った。
    最近仕立てあがったので、夕方になると彼らは浴衣がけ、また団扇をつかい、軽げに三々五々宿舎の庭園を散歩しているそうな。
  • 昨今暑さが日に増し、甚だしきにつれ、湯田温泉入浴も快いが何しろ行き戻りがやり切れぬというので、俘虜のなかには昨今湯田行きを止めて毎日水浴をやっているのが随分あるとのこと。
  • 俘虜将校下士卒以下一同は、本日天気であれば、宮野村畑の妙法院に散歩を試みるそうな。同寺の庭園は樹木鬱蒼として広々とした上に小滝まであるので、彼らは愉快と喜ぶだろう。

8月10日

  • 日露講和会議開始

8月10日付

  • 俘虜将校が買い物のために外出するたびに市中の店舗での購買価格は平均200円以上に及ぶので、不景気の山口にとっては上得意の旦那様である。
    二三日前にも八木呉服店、同雑貨店、阿部雑貨店、小林漆器店、桂山陽堂で、糸織や友禅縮緬羽二重綾織裏地などの呉服物に種々の雑貨類、硯箱その他美術塗物絵葉書など買い入れた価格はおよそ300円であったそうな。
    彼らは品質鑑識に中々巧妙で上物を選んで過らぬ手ぎわは隅に置けない。
    俘虜中佐が糸織縞を手にして、
    「これを買ってきたらどうである。」
    と、聞いたので、通訳が、
    「それは将官が着てもおかしくない品だ」
    と、答えると、そうかと大喜びで買い入れた。
    友禅縮緬類でもきわめて華美なものを選び、塗物類も婦人用の品が多いので、
    「何にするのだ」
    と、所員が問うと、
    「これは可愛い妻子に国土産にするつもりだ」
    と、言うそうである。彼らは平和談判のことを聞きかじり、明日にも帰れるようになることと考えているらしい。俘虜の暢気もむしろ愛すべきことであるまいか。
  • 自炊する前に俘虜給与の佳良なことは下士以下が本国に通じ、その後自炊となってからは段々と彼らの嗜好に適するものが調理できるから下士以下の満足はいうにおよばず、将校までが近ごろぼつぼつ食事給与のことを誉めて本国に通知するようになった。
    ただし俘虜食事についてすこぶる困るのは野菜のことで、何でも取り替え引き替え食べる習慣があるが、ジャガイモのごときはまず好物の一つで沢山食べるが、玉葱と人参だとかも欲しがるから買って渡すと少しばかりいれて日本のはさし物とするにすぎないから、せっかく沢山食べるだろうと用意して失敗することがないでもない。
    また、下士以下には「ソース」または上等の胡椒なぞを買い渡したことがあるが、彼らは、
    「これは高等の人の食い物だ」
    と、辞退して、むしろその量の多いものを望んでいる。どちらにしても俘虜一同が給与に満足していることは事実で、めでたいことである。
  • 浴衣扱帯を許された俘虜は、草履の使用を願い出て許可されたから、これからは浴衣に草履の碧眼紅毛の兄貴を市中で見ることができるだろうとおもいきや、収容所内に限られるという。

8月12日付

  • 本年は気候不順で市中に伝染患者が続出しているので、俘虜収容所でも衛生状態にはすこぶる注意している。彼らの身体強健なことと、生野菜をかじってもちっとも胃腸に損害をきたさぬ習慣で、今のところ一人も病気にかかるものはいない。
  • 他の収容所では逃走
  • 暴行など、いわゆる彼らの天然の発揮をみないことはないが、幸いに当地収容の俘虜は意外と温柔で、今日まで説諭を受けたものさえあまり無いという。
  • 昨日、将校下士以下一同は、古熊周慶寺(いまの善生寺)に散歩し、将校はさらにその付近を迂回して各収容所に帰った。
  • 去る8日夜の風災で、洞春寺と菜香亭の塀が非常に破損したので臨時に衛兵を増加すると同時に、ただちに工事に着手して、翌日復旧した。

8月17日付

  • 昨日、かねて俘虜将校たちが常栄寺雪舟庭園で各自撮影を為したいとの希望があり、麻生写真師(※麻生写真館店主)を招いた。所員の尉官通訳なども、ぜひぜひと強いられて余儀なく同じレンズの中に入った。一同が写ったのは東また西と景色の優れたところを選んで2枚である。
    写真好きの欧州人、ことにロシア人は写真を喜ぶ慣習があるので、あるいは緑滴らんとする竹林の陰にたたずみ、あるいは水辺の岩に腰かけるなど、いろいろ撮影したのは、よほど多数だったとのことである。
    収容以来いずれも肉付いて、和気あいあいの中に彼らが楽しんでいることは近い将来淋しい彼らの家族をにぎわすであろう。
  • 羅馬教崇奉の祭典が天主公教会のフランス人セトル氏の臨席で、法界寺俘虜収容所で行われた。将校宿舎より参加したのはポーランド人の少尉1名と従卒3名であったそうな。

8月19日付

  • 最近当地収容所の俘虜が自由散歩を許されるという噂が市中に広がっているので、所員の将校を訪問して訊ねたところ、こう答えられた。
    「実際に自由散歩を許そうとしたら彼ら及び町民に対し面倒な取締方法を設けねばならぬから必ず県行政官衙と交渉し、差し支えないとなったら主務省に認可を受けなければならないので、15日や20日で埒が明くことはない。いままでこのことを県庁や警察に相談を持ち出したことはないから、何かの間違いであろう。それに収容所のほうでなるべく彼らに慰安を与えてやる方針で散歩回数を増してあるし、買物外出でも彼らがまだ請求しないうちにこちらから連れ出すようにしているから、彼らが境遇に対して少しも不満を抱いている形跡はない。それをこちらから進んで自由散歩を許す必要もあるまい。そんなわけであるから町民が無根の浮説に惑されぬよう新聞紙でも注意してもらいたい。」
  • 東京の日本正教会からさきに山口収容所に派遣されて俘虜の祭事を司っていた司祭の山県金五郎という男は、その後小倉に転じ、九州と山口県の俘虜祭事を担当するようになったが、小倉に行ったのちは神妙臭さがなくなって、所員の目を偲んで俘虜と会食したり、ベラベラしゃべったりして、所員が注意しても一向にあらためないので、とうとうその筋から俘虜収容所の出入りを禁止されたそうな。
  • 先日、法界寺で仏国宣教師セトル氏が羅馬教信徒の俘虜のために祈祷を行い、一同は水を打ったごとく静粛に神に感謝の意を捧げていたところ、何者(※日本人)かが隣室の和尚の部屋に入り込み、板の節穴から指を突き出して手真似をするだけでなく罵るので、所員や衛生が引っ捕らえようとしたが逃げ失せてしまった。菜香亭あたりでも随分あることだが、公徳心の無い奴には困ったものだと、所員の一将校が語っていた。
  • 先日、常栄寺に散策に行ったときのこと、水満々たる雪舟の池を見てたまらなくなったとみえ、裸体になって飛び込もうとした俘虜が二三人いた。所員は、
    「汝らは遊泳ができるか」
    と問うと、一人は胸をたたいて、
    「一二二三四、私わかる」
    などと、片言の日本語でかなずちでないことをいうが、池は溜水で、これまで誰も泳いだことのない池であるから、衛生の上とても危険と、無理になだめすかしたそうだ。
  • 先日、将校が市中に買い物に出たときの話。中河原の三味線屋永岡才六方に行き、琵琶や三味線、琴などいろいろ取り出させて不思議げに眺め、主人の才六に頼んでこれを弾かしたところ、音色の面白さに一同感じ入り、妻子の国土産に琵琶も三味線も買い込み、琴までも買おうとするので、それはあまりにも大きすぎるので本国に持って帰れまいという通訳の注意にやっとみあわせた。
    先日、ロシア本国から七個の手風琴(※アコーディオン)を送ってきたので、どこの収容所も朝から吹奏して歌ったり踊ったりして楽しんでいるとのこと。

8月23日付

  • 一昨日午後、俘虜将校下士卒一同は野田神社境内を散策し、自転車を乗り回す者、手風琴につれて歌う者踊る者など千態万状各歓をつくしていた。
    同日は弘法大師の縁日で、神蓮寺(現在の神福寺。野田神社の隣)に参詣したついでにひそかにその楽しい様子を見ようとして大勢の人が集まったという。

8月27日付

  • 一昨日、1人の俘虜将校が、どう誘い出したのか、12歳を頭に3人の可愛い日本人の娘を伴い、後河原町の麻生写真館に立ち寄り、愉快気に打ち興じつつ他日の記念とするためであると、一同撮影して帰っていった。子煩悩の彼の郷国には彼が祝福を祈る幾多の児童があるそうだ。
  • どう悟ったか近ごろ芸者遊びをやめた一俘虜将校が他から芸妓の話を持ち出されると乗り気になり、
    「平和成立します、私ロスキー日本芸者つれて帰るある」
    などと語るので、
    「日本芸者、あなた大恋愛する」
    などと油をさされて踊りあがり、ポケットから例の官烟敷島を取り出し、マッチを擦って、
    「あなた、吸う、よろしい」
  • 一昨日、所員に率いられた俘虜将校下士卒のほか、将校も三々五々山口高等商業学校運動場の自転車競走を見物した。
    そのためか、湯田
  • 山口の各料理店とも俘虜客の登楼はいたって少なく、瓦屋
  • 菜香亭(今小路支店)等で二三の俘虜がわずかに散財をしたぐらいだった。

8月29日付

  • 当地の衛戌病院で療養中の公爵俘虜少尉は近ごろ元気になって、一昨日は看守兵に伴われて、今小路の菜香亭に赴き、酒食に鬱を散じて帰ったという。
  • 平和の風聞がどこからか聞こえてきて、いずれの収容所も俘虜がすこぶる元気づいて、薄暮頃となれば、彼らのうちから踊り手数人が楽師の奏楽につれて面白く舞踏するのを、一同が拍手して観覧しているなど、その日その日を楽しく送っている。されどこれまでのように従順で、驕慢の様子はない。

9月1日付

  • 一昨日、神戸駐在フランス国副領事モーリースニツコー氏が九州各地の収容所慰問を終えたあと当地に来て、各収容所を慰問した。
    そのとき副領事は各俘虜に対し、現在の境遇で何か求めることはないかと訊ねたところ、いずれの収容所でも、現在の給与に満足で別に欲するところはないと答えた。
    副領事は、
    「他の収容所では俘虜より給与のことで種々注文がだされるため長いときでは一か所で3時間を費やしたことがあるが、当地の俘虜は所員の注意周到なことと俘虜各自が従順なことで、どこも注文を受けることなく、六ケ所もまわってわずか二三時間しかかからなかったのは異常な事実である。」
    また、副領事は、
    「俘虜の班長の命令が他の収容所では左程よく守られていないのが多いが、当地の収容所では各俘虜が手足のほとく班長の命に服従しているとは感心。」
    また、副領事はいづれの収容所でも設備掃除の行き届いているのを見ることから気が清々として爽快を覚えたという。彼らの部屋を仔細に見分し、また俘虜の食すパンを実見し、品質の善良を賞し、清潔な居室に、滋味な給与があり豊頬肥肉としてみゆるはまことにゆえなるかなと語った。
  • 一昨日俘虜将校下士卒一同は所員に引率されて一ノ坂下の金鶏の瀑布に遊んだ。彼らはよほど満足の意を表して、いずれも面白く数時間を遊んだ。
    しかし日本人のごとく風流気というものはロシア人にはなく、滝の下から仰ぎ見て俳句や川柳の一句を出してみようというのはない。
    一同は、どやどやと山をよじって水源の方を見に行った。どこからどうしてこれが出るかというくらいのことを喜ぶのが彼らの平生とみえる。そして下士以下は再び下ってきたときは清き流れに愉快気に身を浸していた。

9月5日

  • ポーツマス条約締結

9月6日付

  • 一昨日は別格官幣社豊坂神社例祭は快晴であったことから、朝から参拝する士女が絶えず、例年に比べてよほど賑わっている。
    ちょうど自由散歩を許された俘虜将校らも賑わいに惹かれて同社境内に向かった。今は地方の人々も彼らに見慣れてしまって彼らの前に珍しげに立ちはだかり運動を妨害するような痴漢もいなかった。俘虜将校はみな思い思いに群衆の中をぬって歩いて、盛装した婦女子や余興を楽しげに眺めていた。
    俘虜将校が最も集まり、わき目も振らず見守っていたのは、社務所で執行された奉納撃剣で、一上一下虚々実々花火を散らして勝負を争う潔さに、各々手に汗をにぎり、なかんづくその一人は感嘆の吐息を流し、かたわらの日本人に片言の日本語で、
    「日本ヨロシイ、ヨロシイ。ロスキーまだありません」
    と、語っていたという。
    謡曲に趣味と素養がなければ日本人といえども能楽はさほど面白くみられるものではないから、人情風俗の異なる彼らの眼に映じてさほどの快感を得る理由もなく、一同は、
    「この舞踏はポコペン、ポコペン」
    と、ささやいていた。
    また、さすがに軍人だけあって俘虜将校は絵馬堂に陳列している日清戦役および北清事件の分捕品に対してはすこぶる精密な注意を払い、いちいち仔細に点検し、不格好な支那服などを指さして吹き出して笑い、例の長い小銃の引金を繰りつつ、
    「支那銃ポコペン、ポコペン」
    と冷笑していた。
  • これまで湯田の娼楼には数回登楼しているが後町遊郭には足を踏み入れたことがなかったのを、再昨日に米殿小路吉川方に俘虜将校3名が浮かれこみたるを始めとし、昨日は2名の登楼者があったという。
  • 衛戌病院入院中の公爵俘虜少尉は一昨日午後、人力車にのって兵卒1名がつきそい、市中景況を観覧して、帰院した。
  • これまで俘虜将校に対しては1週間4回の自由散歩を許してきたが、上長官たる俘虜中佐に対しては特に日々これを許すことになった。
  • これまで俘虜下士卒の散歩は神社仏閣遊園その他郊外でされるのみで、市中を散歩するようなことはなかったが、平和克復の期が近づくにしたがい緊束の程度もしだいにゆるやかとなり、今後は交互に各収容所の下士卒を所員憲兵警官監督のもとに市中各店舗を自由に買い物を許すことになった。
    昨日はその第1回として龍福寺収容所の下士卒を外出させたが、彼らは物珍しげに市中の各店頭に立ち寄り、手遊店
  • 雑貨店
  • 書籍店などことのほか賑わい、中には懐暖かい連中もあるとみえて呉服店に立ち寄り、かれこれと品選びする者さえいたという。

9月8日付

  • 俘虜将校が自由散歩を許されることになり、ことごとく菜香亭に収容されたことは昨紙記載の通りであるが、その数は20名で、その資格のない準士官9名は来島亭に収容されることになった。
    自由散歩を許された区域は、仮に鰐石橋の左岸を起点として川岸を上り、周慶寺橋より石観音八幡馬場を過ぎ、連隊区司令部柵側より神蓮寺までを限りとし、兵営金古曽方面を禁じ、さらに木町はずれより瑠璃光寺
  • 洞春寺
  • 県庁より新道を下り、師範学校前の小川を伝って湯田に至り、吉敷口
  • 小郡口の町はずれより龍泉寺裏に出て、大庭の橋より最初の鰐石橋までの朱引線内において自由散歩が為されるようになった。
  • その筋より発せられた俘虜将校自由散歩に関する心得は下記の通り。
    1. 自由散歩を許可された俘虜将校は高尚なる品行を保持し、決して露国将校の底面を汚さぬことを心掛けるべし
    2. 自由散歩ができる区域は山口町の一部および湯田町とする。
    3. 自由散歩を許可された俘虜将校は毎日火水土曜日午前9時より午後6時まで外出するを得。
    4. 俘虜将校が外出するときはあらかじめ渡された木製記名の外出札を必ず衛兵所の札掛に掲げ置くべし。また帰舎したときは必ずこれを撤収し自ら保管すべし。
    5. 俘虜将校は自由散歩を為すさい、従卒の伴随を得ず。
    6. 俘虜将校は外出先では軍事警察および地方警察の取締りを受けるものとし憲兵ならびに警察官に対し服従の義務あるものとす。
    7. 俘虜将校は散歩中つねに宣誓書を携帯し、将校収容所職員衛兵憲兵および地方警察官の要求があればいつでもこれを示すべきものとす。
    8. 俘虜将校は散歩のさい一切の兵器はもちろん仕込杖の所持を禁じる。
    9. 俘虜将校は散歩中に郵便電信そのほかいっさいの通信を発送または接受することを禁ず。
    10. 俘虜将校が外出先で外国人を訪問するときは収容所長の許可を受けるべし。
    11. 自由散歩の許可を得た俘虜将校で逃走を謀り、または指定の地域外に出て、もしくは郵便電信などを検閲なくして発受するなど宣誓の条項に違反した者は軍法会議において審判のうえ刑罰に処し、その他本心得書に示す条項に違反した者は相当の懲戒を為すほか自由散歩の許可を取り消す。
    12. 前条のほか自由散歩の許可は衛戌司令官においていつでもこれを取り消す事ができる。
  • 自由散歩を許すについて一定の宣誓を行わなければならぬとあって昨日これを行ったはずであるが、これを拒むほどの気概のある者はいないであろう。
  • 普通の外人と一目瞭然となすため俘虜将校の胸部には桃色リボンを結びつけることになっている。
  • 前号記載のとおり料理屋
  • 飲食店
  • 貸座敷営業者に俘虜将校自由散歩に関し訓諭したるほか、馬車
  • 人力車営業者にも区域外に彼らを乗り出さないよう、山口警察署において注意を与えたそうだ。

9月9日付

  • 俘虜将校、近ごろよほど遊び巧者となり、一昨日は俘虜将校3名が米殿小路娼楼吉川に揚代3円のほか2円余であっさり傾け、なお飲み足らぬと久保小路後藤楼に立ち寄り3円を費やし、ほろ酔い機嫌に帰った。
    そのほか伊勢小路来島亭で二人で1円80銭を支払った俘虜旦那もいた。
  • 昨日目時司祭来て、龍福寺で正教の祭事があり、各収容所の将校以下も例によって多数参会した。

9月13日付

  • 自由散歩となっても俘虜将校の失態はみることがないが、大酌満引の露国軍人の特色ともいうべく、第一回自由散歩当日に今小路菜香亭支店に繰り込んだのは3座敷19人にして、これにはべる化粧の者は都合16人。俘虜は数月の留飲を一度に下げんばかりに浮かれて、大枚120余円の支払いをした。
    昨日の外出日にも6人は再び菜香亭に上がり、9名の芸妓を招き、「ちょんきな、ちょんきな」や「座頭さんへ座頭さんへ」とチャランチャラン弾きたてる三味の調子に無我夢中となり、中にも日本語で「をちょこまけのほい」とか「まだまだ」とかやらかす通人がいたので一座どよめき、座も崩れんばかりに賑わしかった。
    また他の俘虜将校数名は湯田に浮かれこんだという。
  • 日曜日に菜香亭で彼らに招かれた化粧の者はしきりに接吻をもとめられ、一同辟易する中に一人の豪のものがこれに応じたところ、相手の露助先生は大得意となり、手にはめていた金指輪を引き抜き、金3円の褒美を添えて投げ与えたのは、功一級の賞とみるべし。他の芸妓どもは指をくわえていたのもおかしい。
  • 前と同じ日のこと、菜香亭で芸妓の〆八が美しい扇をひらいて風を招いた様子に、俘虜将校3人がぜひと所望を望み、進上と気前を見せたところ金5円を投げ与えたが、他の芸妓がおせっかいにも無理に扇を返させ、金5円を返させたとか。
  • 将校監督の任にあたり中佐は衛戌司令官より与えられた地図を案じてその周囲の巡回を試みようと語りつつ午後3時ころ少し外出したが、昨日は外出をしなかった。謹慎の意を表したもので、上長官の威厳を失墜しようとしなかった。
  • 日曜日、自由散歩の俘虜将校数名は許可を得て、山口衛戌病院に入院中の公爵俘虜少尉を訪問し、可哀そうな彼の境遇を慰めたという。

9月14日付

  • 今小路菜香亭で俘虜将校が豪遊したことは作紙記載の通り。
    しかして湯田にくりこんだ別動隊は、山口より4人の芸妓と1人の舞妓と、湯田検番より4人の芸妓の総勢9名を招き、これも例のごとく底抜けの騒ぎをして、松田屋の支払いは、菜香亭の勘定90円余と同様だったという。
  • 酔った勢いか湯田にくりこんだ将校の一人は同地の娼楼徳田屋にくりこみ、娼妓丈八に金3円を投げ与え、またの外出日を約束して立ち去ったという。
  • 来島亭収容のバリス中尉は熱心に勉強して日本語が一通りの応対には差し支えないまでに進歩した。自由散歩のときは自ら進んで通訳の労をとり、また料理屋の勘定の駆引手配を振ったので、俘虜将校は彼を「新通訳」と呼んだ。

9月16日付

  • 当地衛戌病院入院中の公爵俘虜少尉は、カガサ州における豪族だそうだ。彼は肺結核で、難病と自覚しているが、本国には一切そのことを伝えぬ。また友人にも知らせないようにしているらしい。そのため先日も母という人から手紙が来たが病気については書かれていない、無事の帰国を望んでいるとばかりで、母に気遣いはさせまいという少尉の心はどれだけゆかしいことか。
  • 俘虜将校がフランス国公使を経て受ける手当や日本国政府から得る給与は毎月決まった額で、自由散歩のたびに派手な遊びはできないだろう。
    昨日の散歩日の散財高はぐっと減って、湯田の松田屋で俘虜将校6名が2人の芸妓を招いて36円45銭の支払いをしたのみである。
  • 俘虜将校の中で随一のハイカラとよばれ、自らも大通気取りのニコラス少尉も松田屋にくりこんだ連中の一人であるが、何しろ6人で15円61銭の洋酒を仰飲したので十二分に酒は行き渡っている。特にニコラス少尉はあいかわらず踊る跳ねるの大騒ぎをしたので悪酔いをして、ついに反吐を催し、その席を汚した。少尉は大変恐縮して、
    「醜態をさらして芸妓衆や女中さんに介抱させたり掃除させたりしたことは誠に恥じ入った次第であります」
    と、両眼に涙をたたえていたそうである。
  • 湯田に遊んだ連中のうち3人は松田屋から送られて同地の娼楼徳田屋に遊び8円を支払ったそうだ。
  • 菜香亭における取締り俘虜中佐はあいかわらず厳格であまり外出もせず、料理屋に登楼することもない。昨日も他の大尉2人とともに野原温泉に行ってきただけのことである。

9月17日付

  • 今度の講和条約によって批准交換後は両国の俘虜が互いに交換されて各本国の妻子眷属と会うことができるのであるが、俘虜情報所員の語るところによると、
    1. 日本各地の収容所に収容されている俘虜の全数は6万5千人。日本人が彼の地で俘虜になっているのは1千5百から2千人で、その大部分はセントピータースブログにちかいメドウエード及びハルピンに収容されている。
    2. 彼地の放還された非戦闘員の談話でも、露国は日本の俘虜の遇し方がずいぶん過酷を極めるようである。
      それにくらべて日本国の俘虜待遇法はすこぶる懇篤親切で、これは各国が等しく首肯するところである。それゆえ俘虜の中にはかえって戦争の継続を祈っているものがいるくらいである。
    3. 俘虜となった露国軍人の家族のなかには万里波濤をこえて日本で夫と同棲している妻が15、6人いる。日本の婦人にはちょっとできないことであるから敵ながらあっぱれの勇気を嘆賞しないわけにはいかない。しかし戦時公報の規定によって俘虜の夫婦同棲を許すのは将校以上に限られているので、下士兵卒の妻で渡来したものがあったがこれは同棲を許されなかったそうである。また、少尉より大尉までの将校に対しては日本国政府から手当として毎月約50円を支給してあるそうだが、同棲者にはロシア国政府からさらに100円を支給しているそうである。
    4. 俘虜の中には自ら進んで投降した者も少なくない。これはポーランド人やユダヤ人で、平素から露国政府に嫌厭している結果である。しかしこれらの俘虜は交換されて帰国の上は軍法によって処分されねばならないから(旅順の際のいわゆる名誉の降伏はこのかぎりではない)、彼らの中には本国送還を厭い日本へ帰化を請願するものが少なくないがこれは公法の許さぬところで、みな却下されるそうである。
    5. 今度の講和条約では賠償金を取れないことになっていて、金気といっては俘虜交換に伴う双方実費の差額だけで、現在陸軍省経理局で計算中だそうである。6万5千人に対する2千人以内の差額であるから、けちな賠償金くらいにはあたるであろう。計算は頭数に食糧費をかければでるわけではない、食料に、収容地への護送の旅費、収容に要する建物の建築費、収容中に日本国から支給した手当金、俘虜取扱いに関する官衙費ならびに事務上すべての経費、俘虜取扱いに関して露国政府と往復する郵便電信料、その他俘虜取扱いに関連した諸経費はすべて算入されるのである。
    6. 俘虜の交換地はいまだ確定していないが、古来各国の例により各その国境まで送り出してそこで先方の手に引き渡すのが普通である。それゆえ日本人の俘虜は長春付近で、ロシア人の俘虜は長崎辺で引き渡されるであろう。

9月18日付

  • 俘虜将校は日本の芸妓線香代が高値であることにびっくりしたものとみえ、16日菜香亭支店にくりこんだ4人の将校は、芸妓の「ロスの旦那はん、差し込んでおくなはれ」を拒絶して8円70銭の散財をし、各ビール2本ずつ携え立ち帰り、湯田松田屋にのぼった2名も芸者無しに2円70銭の支払いをし、湯田瓦屋に入浴した将校3名は上り場で平野水2本を傾けただけだった。
  • 一人の俘虜将校が一昨日、ある店の店頭に立ち、そこに居合わせた2名の店員を指さし、
    「アナタ日本人、またアナタ日本芸者、わたしロスキー。ロスキー、日本芸者貰う、50円。日本人、日本芸者貰う、何程」
    そう問うものの、日本人はその意がわからず、たんに、
    「40円なり」
    と答えたという。
  • 山口芸妓の写真の中で、俘虜将校がもっとも好んで買い入れるのは歌菊と〆八の二人だそうで、おもうに彼等は露国式美人であろう。

9月22日付

  • 一昨日、自由散歩の俘虜将校は湯田松田屋に2人と、今小路菜香亭支店に登楼したのみで、いずれも2円3円の散財をしただけであった。
  • 湯田徳田席の丈八の馴染み客である俘虜将校は一昨日またも同楼にうかれこみ40分ばかり遊びサヨーナラ。
  • 一昨日、俘虜将校数名は後町(うしろまち)を軒別にひやかしたが一人も登楼しなかった。
  • 俘虜将校が一妓を指さし、
    「日本美人、鼻チョンボリあります。アナタ、鼻チョンボリある。あなた美人あります。」
  • 俘虜将校はいずれも官烟敷島を愛用しているが。彼らはこれを大尉煙草とよび、上等の人でなければ用いるべきものでないとしているらしい。
  • 過日後藤楼に登楼した俘虜将校、置屋入りの味をしめ、一昨日も線香代よりも安値につくと大きな梨10個を土産に諸願小路芸妓置屋山川方に来た。〆八を相手に片言まじりにしばし楽しげに話し、それより久保小路置屋嶋屋に投げ足を喰わせ、「私、〆八さん大変好き。小高さんちょっとよろしい」なぞと世辞を撒きながら半時ばかり遊んで立ち去った。
  • 将校の裕福と引き換え俘虜の下士卒は金に乏しいためろくろく巻煙草をくゆらせぬとみえ、近ごろは日本式に銜(くわ)えキセルで日本たばこをスッパスッパやっている。
  • 一昨日、龍福寺に俘虜将校下士卒一同が集まり、祭事を行った。

9月23日付

  • 一昨日、俘虜下士卒全員が遠足を試み、小鯖村で地元の好意の湯茶で小憩し、佐波山洞道を過ぎ、右田村でも地元民の湯茶で小憩し、佐波川附近で引き返し、小鯖の禅昌寺で昼飯を食べた。往復とも軍歌を声高々に歌っていた。
  • これまで俘虜将校の自由散歩は、上長官たる中佐を除いて1週間に4度だったが、数日前から毎日許されることとなった。
  • いよいよ平和克復となって、俘虜に対しても身分相当の敬礼を行うことになり、これまで衛兵助手などは俘虜将校にむかって対等の言語を発していたが今後はこれらのことについて深く注意することになり、もし犯す者があれば豪も仮借するところなしという。
  • 17日は来島亭に4名、湯田松田屋に6名の俘虜将校の遊客があった。彼らも平和克復を祝し、日ごろに倍し愉快に酒を酌み交わした。
  • 俘虜の帰国は来月ないしは
    12月初旬であると記したが、12月にはいっては輸送地と目されるウラジオストックは結氷するのでたぶんは11月中に終わるであろうという者がいるが、どうだろう。
  • 平和克復にあたり従来もちいてきた俘虜の記章の赤色リボンを除き、かつ三人一組散歩の制限を取り除いたという。

10月14日付

  • 俘虜らは平和談判がまとまったら近いうちに帰国できると信じているらしく、一昨日も米屋町の阿部雑貨店に行き旅行鞄を買う者、野田町高橋裁縫店へ行き防寒帽子の修繕を依頼した者などがいた。これらは帰国の準備である。
  • 久しく猫をかぶっていた俘虜将校たちは、毎日の上天気に徐々に浮かれ出し、一昨日は午前11頃1名が伊勢小路来島亭へ至り、わざわざ湯田芸妓を招いて4時過ぎまで浅酌低唱の粋事を演じ、午後1時から2名は今小路菜香亭にのぼりあっさりと酒を酌み交わし、また2名は同じころより久保小路後藤楼に登楼して芸妓〆八、小高、小照らを招き、例の「チョン来なチョン来な」で陽気に騒いで帰ったという。
  • 俘虜将校中娼妓買いの口を切ったセルゲイは湯田徳田店の丈八の情を忘れかねてこれまで数回通っていたが、一昨日も登楼して敵娼丈八に頤の紐を解かれ、又の日を約束して帰った。
  • 近ごろ俘虜先生たちは日本語を覚えるととともに山口訛りを語って楽しがり、廻らぬ口に、
    「食べさんせ。」
    「知っちょる。」

10月15日

  • 日露講和条約の批准通告 発効

10月25日付

  • これまでは戦敗国の俘虜として謹慎を表していた俘虜兵も平和克復とともにもはや事実上俘虜ではないと暴戻の挙動はありませぬかとおもったが全くの杞憂で、以前よりいっそう静粛にしてよく命令に服従している。ただ「いつまでに帰れるでしょうか」とやたらと尋ねるそうである。
  • 聞くところによるとその筋からは俘虜全体に冬服を支給してやっているが、それはみな彼らの軍からの戦利品そのままで、気候温暖な日本ではぬくすぎるというので、かくもまちまちになっているとのことだ。
  • 俘虜下士卒はこれまで所員助手警官などに引率されてあらかじめ一定の場所を定めて散歩させていたが、平和克復とともに制限を拡張し、昨日より毎日午後1時から3時まで散歩させるとともに衛戌線内であれば行きたいところに行けることになった。
  • 懐の寒い下士卒が主として立ち寄るのは玩具店で、そのつぎは絵葉書店である。贅沢に絹のハンカチーフを求めるものも往々いるがそれは本国ロシアに比べてよほど安いからだという。

10月29日付

  • 来山中の真鍋留守第五師団長は、昨日午後3時菜香亭収容所で俘虜将校準士官に訓示を与えた。
    「卿などに会するに前後2回、これ一に公務のためにしたものである。今幸いに平和克復してさらにここに卿等に会するは握手的快威である。卿等は余の諸注意を守り失態なくその面目を持続して今日にいたり。遠からず帰国の途に上ることは余の吏心満足するところである。卿等が祖国に向かうさいに再び相まみえる機会を得ると信じている。」
    これに対して先任俘虜将校は一同を代表して感謝の当時を述べた。
    真鍋中将は俘虜下士卒と八坂神社境内に会して同様の訓示を与えた。彼らの喜悦は例えるものがないほどだった。
  • 本日山口中学校演武場において同校生徒の、午前は剣術、午後は柔道の試合を、俘虜将校下士卒を招いて観覧させるそうで、彼らは「小さくも針は呑めぬ」という諺の真理を悟るであろう。
  • 当俘虜収容所所員陸軍歩兵大尉又森真吉氏は事務打ち合わせのため本日上京するというが、これは俘虜引き渡しに関することであると察せられる。

10月31日付

  • 一昨日の山口中学校演武場における俘虜将校下士卒は、午前中の撃剣試合では、その掛け声の不思議さに、
    「あれは何を意味するのか」
    と通訳に尋ねたのみで、感想を惹起するほどのことはなかったようである。
    しかし午後の柔道試合では一同は酔えるがごとく見物していた。
    そこへ洞春寺収容の六尺有余の俘虜兵がおどりでて腕に満身の力を込めて、
    「来たれよ、勝負、勝負、勝負」
    とよばわった。愛嬌とばかりに同校生徒の某と立ち合わせると、何の苦も無くズッデンコロリと投げ飛ばされ、頭を抱えて逃げ出した。
    そのあと洞春寺収容の俘虜一名戦友がまたもや飛んで出て阿修羅魔王の荒れた勢いで立ち向かったが、これまたかんたんに組み敷かれ、投げ飛ばされた。もはや争わんというものもなく、恐れ入って感嘆していた。

11月7日付

  • 一昨日午前9時より俘虜下士一同は山口高等商業学校前運動場で、山口中学校の運動会を観覧した。
  • 3日、今道小学校で開催された各学校平和克復記念会陳列品を縦覧した俘虜将校は高等女学校販売部で絵画二枚を買い求めた。
  • 平和克復後、俘虜将校は芸妓買芝居見物なぞと荒淫日を送り、帰舎時間の9時にやっと酔いつぶれて帰る者が多いという。

11月9日付

  • 平和克復後、俘虜下士卒は将校同様自由散歩の許可を得んと哀願しているが許可が下りないので、近ごろは外出散歩に武装した憲兵衛兵等がついてくるのを廃せんと苦情を申し込んでいる。
  • 俘虜情報局兼山口収容所員の又森大尉は上京して数日前に山口に帰還したがただちに長崎に出張し、本日帰山のはず。いずれにしても俘虜の退去は今月中のことにちがいない。

11月10日付

  • 当地収容所では規則に反する者は一歩も仮借せずと厳然と言い渡している。
    福岡からきた俘虜将校に聞けば、福岡では宿泊して帰らないばかりか二夜三夜に及ぶものさえあるのに、帰所時間を遅刻するくらいのことはそう厳重に言わんでもよいものをと恨み言いいつつ、しかし尻込みする者多いとか。
  • 公爵俘虜少尉は肺結核は快癒しつつあるが、どこで感染したものか梅毒が噴き出て一時病院で治療は施したが、全治はおぼつかないから、この害毒をふりまかれては危険である。

11月12日付

  • 露国俘虜7万余名の引き渡しは、まず今月12、13日に神戸で浜寺収容所俘虜役4千名を引き渡し、13日横浜で習志野収容所の俘虜役2千名を引き渡すこととなった。これらはいずれも旅順の俘虜で、露国委員の希望から旅順の俘虜を真っ先に輸送すべしとのことである。これらはいずれも長崎を経由してウラジオストックに輸送されるという話だ。もっとも一半はオデッサに輸送すべしという。

11月13日付

  • これまで俘虜将校および準士官の自由散歩時間は午後9時までだったが、一昨日より午後十時までに延ばされた。
  • 菜香亭収容のボリス、ショケイの俘虜中尉は2名は、県下各地の旅行を許可され、昨日当地を出発し、18日に帰山のはず。行先地は小郡、宮市、三田尻、中関、萩、越ケ浜などで、萩地方の往路は大田を通り、帰路は佐々並を通る予定。
  • 公爵少尉他4名は福岡地方に旅行し、本日帰来の予定であったが、早くも8日ニコライ少尉を除くほか一同が帰来した。旅費に欠乏したのであろうという者がいるが、公爵少尉は芸者のどてら、縮緬の三尺帯をひけらかして車を乘り回していたことより推測すれば当地の化粧の者の移り香が忘れかねて帰ってきたとおもわれる。

11月18日付

  • 当地収容の俘虜将校のうち中佐1名一等大尉1名少尉2名はかねて大阪地方の旅行を願い出ていたが、昨日許可されたので当地を出発した。24日午後9時までに帰山のはず。

11月23日付

  • ロンドン発電報:日本捕虜1785名、16日ベルリンに到着。
  • 当地収容の俘虜がいつ帰還するかは確定していないが、いつでも出発できるよう準備しいておくようにとの通達があった。
  • さきに県下旅行中の菜香亭収容のボリス、ニコライ、ウイッチの将校は予定より1日早く一昨日帰山した。
    前記ボリスとショゲーの中尉はさらに東京遊覧の許可を得て同日夕方上京したという。25日帰山のはず。
  • 当地収容の俘虜衛生状態はすこぶる良好で、数名の感冒患者がいるだけという。

11月28日

  • 山口の陸軍歩兵第42連隊凱旋。町を挙げての歓迎を受ける。

11月29日付

  • 法界寺収容の俘虜兵60名のうち20名が凱旋連隊の軍容がみたいと出願し、とくに許可され、同寺門前に整列し、静粛に観覧した。

12月4日付

  • 福岡俘虜収容所の俘虜将校中佐1名一等大尉1名少尉1名少尉補1名は、益田通訳とともに、2日湯田松田屋に投宿し、3日菜香亭俘虜収容所を訪れ同所の俘虜将校2名とともに松田屋に引き返し、当地の芸妓5名を招き酒宴を張った。福岡の俘虜将校4名は昨日松田屋を出発し、小郡に向かった。当地の俘虜将校2名は許可を得て昨日小郡駅より福岡に向かい、3名の俘虜将校が小郡駅まで見送った。

明治39年1月6日

  • 船順がおもったとおりにならず、されど当地及び九州各地収容の俘虜も二月中には受領したいとの露国俘虜受領委員の話である。
  • 過日、俘虜将校付きの従卒らは将校の用務を達するという拘束をほどき、自由に外出を許したところ、彼らはさもうれしげに所用ごとに道草を食ってあちこち漫歩しているのを見る。

1月7日付

  • 芸妓の某々らが捕虜のとりことなっていることを耳にして怒った青年将校は少なくない。檄を留守隊に送り、凱旋の暁にはこれに関係した者には拳骨の雨をくらわすと誓いを立てたことは先日の本誌に掲載した。
  • 1月4日、新調した軍服盛装姿で、佩剣を固く握り、今小路の菜香亭支店を訪れた青年将校がいた。女中はすぐに2階に案内して、珍味佳肴に酒をだした。青年将校は、酒もよし肴もよし、では好める愛の女神を連れてこいという。使者が向かったのは、捕虜の虜として名を得た若崎店小縫のもと。しかしその日は凹街は繁盛して忙しく、青年士官が昨年秋出征前より深く色香に迷い、満州より夢を走らせた小縫もそのとき置屋にいなかった。
    今日は面白くないと青年将校は女どもが止めるのを聞かず、階段を下った。そのときである、突然あらわれた青年将校4人5人、ばらばらと行く手をさえぎり、「しばらく待て」というと無数のこぶしの雨を降らせたため、新調の礼服は金モールもなにもかもバラバラ裂けて飛び、無残な有様。
    「誓言を反故にしての汝が始末は我ら軍人の名誉を棄損したること多大なれば全体寸断しても足らぬ奴だが、今日だけはゆるしてやる。それとも、腹が立つならばその佩剣は飾りでもあるまい。武光でなければ抜いてみよ」
    と、重ねて恥辱を与えた。
    捕虜芸妓に目をつりあげる軍人さんはあんなものかと陰口をたたきながらも女中らは震えて傍観し、仲裁はしなかったので、一団は凱歌とともに引き上げていった。

1月18日付

  • 露国俘虜受領委員長が当地に収容の俘虜に与えた訓示によれば、本月中に輸送を終わる手はずであるという。

1月21日付

  • 当地収容の俘虜12名はかねて自費帰国を願い出ていたが、昨朝允許の命令が来たので、その12名を旅団司令部に招集して、村山旅団長、俘虜収容所長山口圭蔵少将、山口県知事代理林部長より別辞があった。
    それに対し俘虜中佐は一々丁寧に感謝の辞を述べた。

2月2日付

  • なかなか帰国できない俘虜下士卒は不快の念がたまっていて、どうやって秘密謀議をしたのか、一昨日午後2時ころ、自由散歩が許されたわけではないのに各収容所の俘虜下士卒は潮のごとく門外に出て、彼らがつねに訓示等を受けている八坂神社境内に集合した。
    慌てて収容所長山口少将らがかけつけ、彼らの意見をきき、彼らの命令違反を責め、かつ彼らの誤解をただし、帰還も遠くないと説得した。
    俘虜下士卒一同は謝罪し、大いに満足を表して帰舎した。
    所員のふだんからの監督ぶりが良かったので彼らも温和な態度で集会し、喧騒犯暴の行為がなかったのはせめてもの幸せである。

2月6日付

  • 当地収容の露国俘虜将校下士卒に、一昨日午前に還送の命令が収容事務所に届き、午後には書面をもって各収容所に通達した。
    通報に接するや各収容所俘虜はたとえようもなく喜び、庭前に集合してウラーウラーの祝賀の声を上げた。近所に住む者は何事かといぶかったという。
  • 今夜一夜が最後の眠りとおもえばうれしさに堪えかねて一同語り明かし、歌いすごして一睡もしなかったという。
  • 各収容所より三々五々、衛兵の目をぬすんでは脱出し、後町遊郭にいたるものが多いが、そうはさせじと追廻し引戻す取締りの警官は目を回さんばかりの忙しさだった。
  • 一昨日、洞春寺収容所の俘虜兵が、他の俘虜兵の衣嚢より金銭を盗もうとしたところを発見され、みなに袋叩きにされ、泣いて謝罪した。一時はなかなかの騒動だった。
  • 俘虜下士卒一同には、午前6時半まで八坂神社境内に集合すべしとの条件つきで、午前3時ころより自由散歩が許された。名残に山口の土地隅々まで巡覧しておこうと東西南北おもいおもいに足を運んでいる姿を見た。
  • 昨朝は俘虜に二度分の糧食を携帯させるため、各収容所の俘虜炊事当番は一睡もできずに炊き出しに従事した。
  • 午前6時半、山口収容所長は八坂神社境内に俘虜一同を集め、訓示を与えた。
    「爾等(なんじら)が非常なる耐忍をもって待った還送の時がいよいよ今日到来し、爾等の喜悦察するにあまりありて、我らも慶し且つ賀するところである。爾等は祖国のために奮闘した結果、今日の不幸なる境遇に陥り、昨年4月以来11ヶ月間の久しき間、不自由にして窮屈なる生活を為したるについては大いに同情を寄するところである。爾等は二三の者を除くほか収容所の諸規則を恪守して従順に起居し、よく露国軍人の体面を保ち、摂生を守り、健康を持したるについては深く満足を表するところである。これより海陸長途の旅行の間、各自摂生に注意し、完全なる健康をもって祖国に帰り、爾等の親愛なる妻子眷属に見ゆることを祈る」云々。
  • 山口少将の訓示を聞くや、一同は一斉にウラーウラーと絶叫し踊り狂い、山口少将の手を取り足を取り数回胴上げをして謝意を表した。
  • 俘虜収容所附の小西看護手はすこぶる俘虜に懇切であったから一同深く別れを惜しみ、長崎まで同行を許してほしいと請願が止まず、その情を汲み、とくに同地まで同行を許可された。
  • かくて一同は軍歌を紙風琴にあわして声高く歌いつつ八坂神社境内を解散し、下士卒303名は歩いて午前7時、俘虜将校準士官12名は人力車に乗って午前9時、昨年4月以来11ヶ月の長い間暮らした当地を去り、午後0時11分小郡駅発列車で帰国の途に上った。

余話:捕虜と娘のロマンス(防長新聞 明治39年1月12日付)

萩の秋田ナツ(十九)は昨年3月頃より伊勢小路来島亭の酌婦となり、同年7月ころ下竪小路某方に転じて、10月にまた来島亭に戻ってきた。

ときおり来島亭に遊びに来る俘虜将校のなかに、菜香亭収容のバリス中尉がいた。男前で気心もよく、色白く丸ぽちゃのナツが心から愛嬌をふりまけば、バリスも「真実汝愛します」の色よい返事にナツも嬉しく、人目を忍ぶ仲となった。
秋深くなってからはバリスは日に二三度ナツの顔をみないとパンも喉を通らないというくらいになった。

ナツもまたバリスの嬉しげな顔をみては思い深くなり、ひそかに未来の楽しみまで描くようになった。
ふとしたことよりナツは故郷に帰ることになり、12月上旬、萩の実家に帰った。

それからというものバリスはしょげてやつれていき、散歩もせず、時が過ぎていった。
ついに自らたずねて行こうと、12月15日、バリスはわざわざナツのもとを訪れ、

「私、逢いたくありました」

と、暖かい接吻を身体中にくれた。
そのあと親たちを説きつけ、

「私、ナツさん、妻もらいます。本国連れていきます」

と、廻らぬ口で懇望した。

ナツはもとよりにくからず思っているので、否のあるはずはない。
親たちは、なにしろ捕虜だから世間へ聞こえて面目ないと一度は断ってみたが、双方がすでに口頭の契約をしていればこれを差し止めていかなる憂き目を後日に見る事のあろうやもしれぬ、露助とて人間に変りもなし、ことに中尉といえば、娘も一生を漁師の娘で暮らさすより、奥様といわれる果報、我々も一人娘を失ったと思えば済むことと、思案を定めて内縁の妻にやることを約束した。

バリスの満足はこのうえもなく、両親を拝まぬばかりに、

「いずれすぐ連れ帰るわけにもいかないので、私は山口に帰りますが、帰国するようになり次第知らせますので、それまではしかと預け置きます」

というようなことを伝えて、収容所に帰った。

バリスが収容所に戻ると、急に本国へ帰ることになっていた。
これは大変、このまま帰ってはナツさんが嘆く、万一嘆き死にされてはとりかえしがつかないと、バリスはかねて懇意の伊勢小路の餅屋佐々木ツル(五十一)方へ飛んでいき、どうしたものかと相談したところ、電報で呼び寄せるべしと教えられて、その通りにした。

電報を受け取ったナツも驚いて、叔母とともに大急ぎで24日山口に出て、佐々木ツル方に滞留した。バリスの帰国についてはすぐさま一緒にいくわけにはいかぬから、長崎から招こうか、本国から人を差し向けようかと、いろいろ相談して朝をむかえた。

ところで、かねてバリスがこの餅屋へ出入りすることに不審をいだき探りを入れていた山口警察署の探偵連中は、その夜バリスとナツが同衾しているところを見すまして踏み込み、ナツとツルを本署へ連れて行った。

翌25日、ナツは密淫売として5日間、ツルは媒合容止として十日間の拘留が申し渡された。
バリスは、ナツが奪い去られたことで当惑のあまり自ら警察へ出頭し、熊谷署長に直訴した。

「あの女、私、面会します。私、彼女、妻にもらいました。新聞出てあります、皆うそあります。あの女まことに気の毒かないません。新聞悪く書きます。30日あの女どこへ戻ります。30日まで此処ありますか。あの女、私、父母話して、妻貰いました」

と、片言交じりに面会を求めたが許されなかった。
しかし正式裁判を仰ぐ方法ありと教えられ、バリスは大いに喜び、その手続きをし、保証金を収めて、ナツの放免を願い出た。

ナツは、捕らわれたときに捕虜と夫婦の約束があると訴えた。しかし誰かが、

「お前を連れ帰り、面白半分に、飼っている猛虎の餌食にすることを知らないのか」

と脅すので、びっくりして、一時密淫売の拘留処分を受けることに心を傾けた。

その日限が来る前に、バリスが一身をささげて願い出たことで、特に帰宅を許され、仔細を恋人のバリスより聞き、前日の脅迫は嘘であるとわかり、同日正式の裁判を仰いだ。
しかしバリスは判決の結果をみる前に29日、本国へ向かうこととなり、名残の接吻に渾身の血を送り、涙に目も開かず、長崎へと立ち去った。同日、ナツも別れに胸ふさいだまま裁判開廷まで萩の実家に帰った。

年も改まり昨日、山口区裁判所で公判改訂され、弁弁護士の証人としてナツの叔母が出た。

「取り押さえられたときは、虎の餌になるという恐ろしさと、捕虜の妻となることになんとなく世間をはばかって事実を申し上げませんでしたが、実は前記の通り」

と、双方より申し立て、充分取り調べられた結果、疑いが晴れて赦免となり、媒合容止も自然消滅となり、みな喜んだ。
いまどこを帰っているのか知らないが、バリスが知ったらきっと喜び、踊り跳ねるであろう、その姿を見たいものだ。

菜香亭の歴史一覧