菜香亭の歴史
大正の有名人続々来亭
料亭菜香亭には大正時代にも引き続き政府の高官や文化人、著名人が来亭され、まさに「山口の迎賓館」の様相を呈しました。
ここでは大正2年(1912)から7年(1918)までの来亭者を当時の防長新聞(山口県立山口図書館所蔵)の記事から年表風に紹介します。
大正政変後ののちに政党政治内閣の総理大臣となる、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸が来亭しています。
大正2年(1913)
- 2月11日/第3次桂太郎内閣総辞職(大正政変)
- 2月20日/小郡~山口駅の山口線開通。夜五時より料亭菜香亭で慰労会開催。毛利元昭公爵、山口県前知事・現知事、鉄道院側の人々その他3、40名を招待して夜会。
- 3月11日/毛利敬親夫人の葬儀委員のうち東京その他より来山したもののうち帰省を急ぐ50余名、祭官一行14名、午後四時より盛大な慰労会。翌日に残余の者や地方委員らの慰労会。
- 5月7日/山口町料理屋飲食店同業組合の委員会を開催し、新たに設置される保健組合の組合長に齊藤泰一が選ばれる。
- 5月16日/立憲同志会の江木翼が晩餐会。
- 5月24日/若槻礼次郎前大蔵大臣、箕浦勝人の歓迎会。山陰巡遊の帰途立ち寄る。歓迎会で若槻氏、日本の財政について講演。
- 6月15日(菜香亭での宴会例1)/山口電燈所十周年記念会開催。200人参加。新作「光る君」、山口芸妓によって披露。大広間の会場に各国旗が縦横に吊るされ、食卓に珍味佳肴に盛花。庭前にはビヤホール、氷店、蕎麦、善哉の模擬店がならぶ。
- 毛利元昭((もうり もとあきら/1865~1938)は最後の藩主毛利元徳の子。江戸時代に生まれたためでしょう最後の殿様と呼ばれました。明治30年家督を継ぎ、公爵に。料亭菜香亭を贔屓にしていました。
- 齊藤泰一(さいとう たいいち/1873~1970)は三代目菜香亭主人。初代主人幸兵衛の四男。明治20年代前半に上京し、井上馨の書生をつとめながら上野精養軒で西洋料理の修業。帰郷後、菜香亭で本格的西洋料理を出す。明治32年兄の二代目甲兵衛が他界したとき、その長男吉之助(のち四代目)が幼少であったため、一時家業を継ぎました。
- 江木翼(えぎ たすく/1873~1932)は、現在の岩国市で酒造業を営む家に生まれました。のち江木千之(貴族院議員・文部大臣)の養子となります。内務省に入省後、大正元年(1912)より桂内閣、大隈内閣、加藤内閣など憲政会系の政党で書記官長を務めました。大正5年(1916)10月5日より貴族院議員に勅選されました。その後も司法大臣・鉄道大臣を務め、総裁候補と言われました。
- 若槻礼次郎(わかつき れいじろう/1866~1949)は松江藩の貧しい足軽の家に生まれました。帝国大学を首席で卒業。大蔵省に入り次官まで上り、大正元年桂内閣で大蔵大臣を務めて以降大臣職を歴任。大正5年憲政会に参加し副総裁。大正15年加藤高明首相が在職中に死去したため首相となります。その後再度首相を務めたあと重臣を務めました。
- 箕浦勝人(みのうら かつんど/1854~1929)は大分県にあった臼杵藩の武道師範の子。慶応義塾出身。郵便報知新聞社に入社し、のち社長。立憲改進党に参加。明治23年第一回衆議院議員選挙で当選。大正4・5年逓信大臣。
8月8日の広告
- 10月10日/桂太郎死去
- 11月3日(菜香亭での宴会例2)/第四回山口警新懇親会開催。抽選で席次を決め着席。署長挨拶にて、かくし芸をさらけ出すように、出さないものは洋盃または盃洗で一杯飲むべしと。開宴すると数名の芸妓が酒間を斡旋。妓お妻の踊り瀧尽しに始まり、踊りやら二輪加(にわか)やら手品やらかくし芸が出た。
- 12月11日/23日に立ちあがる故桂太郎系の立憲同志会の大浦兼武、若槻礼次郎、島田三郎、長島隆二、江木翼の歓迎会開催。みな立憲同志会支部発会式のため来山。芸妓、仮舞台で「月の巻」「唐人」披露。
- 大浦兼武(おおうら かねたけ/1850~1918)は薩摩藩出身。戊辰戦争に参加。警察官になり警視総監まで上りつめました。明治26年から各地の知事歴任。明治28・29年山口県知事。明治36年から桂内閣で大臣職歴任。このときは前内務大臣。大正4年収賄罪で起訴。政界を引退しました。
- 島田三郎(しまだ さぶろう/1852~1923)は幕府御家人の家に生まれた。早稲田大学の前身東京専門学校の創立期の一員。立憲改進党創立に参加。第一回衆議院選挙から連続14回当選。大正4年~6年衆議院議長を務めました。
- 長嶋隆二(ながしま りゅうじ/1878~1940)は埼玉県の村長の子。東京帝国大学卒業後大蔵省入省。桂太郎の三女と結婚。桂内閣の内閣総理大臣秘書官を務めました。大正3年から衆議院議員となり、昭和7年まで断続的に務めた。また恩賜財団済生会の参事を創設以来30年近く務めています。
大正3年(1914)
- 1月28日/菜香亭が新年会を兼ねて、山口座前新築家屋落成祝い。野田町及び中河原付近の人々、各芸妓置屋料理屋魚類商其他特別関係ある者百余名を招待し、芸妓数十名が杯盤のうちを斡旋し、すこぶる盛況。
- 2月4日広告/料亭菜香亭は「鶴の家」という旅館を新たに別に開館したようです。
- 4月21日/大森房吉博士の談話会が菜香亭で開催。山口高等商業学校校長他教授教師参加。
- 6月10日 山口町会議員二級選挙で齊藤泰一当選。
- 大森房吉(おおもり ふさきち/1868~1923)は越前福井藩の下級武士の家に生まれました。東京帝国大学院で気象学・地震学専攻。のち帝国大学地震学教授となり、日本地震学の父と呼ばれています。この年1月桜島大正大噴火が発生し調査に入っていました。
大正4年(1915)
- 1月3日 福島安正将軍来山。大殿小学校で講演会。夜、宿泊先の旅館で面会謝絶して「剛健」など五十余枚揮毫。翌朝十四五枚揮毫。それでも白地の絹百二十余枚が残されたという。
- 料亭菜香亭には福島将軍のシベリア横断中の姿の掛軸があります。
また、「砥礪」の扁額もあります。大正4年に書いてもらったものでしょうか。 - 2月16日 若槻礼次郎大蔵大臣の歓迎会開催。県知事以下八十九名参加。
- 2月18日 米国シカゴ大学神学部長・米国基督教同盟会「教育の理想」会頭セーラー・マシウス博士の官民合同歓迎会。
- 5月8日 山口高商十年記念会講演のため来山の三宅雪嶺・河上肇両博士の歓迎会を菜香亭で開催するとの告知が行われ、参加者が募集された。
- 6月14日 三井銀行常務取締役早川千吉郎、東京音楽学校長湯原元一らの歓迎会。
湯原「余は山口の静寂なる風光い久しく親しんでいたが、去ってのちも山高くして太古のごとく春長くして青年の如き山口を、常に想思に描いておって今日まで忘れない。しかし汽車は開通する高等商業学校は設立さるる大分文明の風潮にさらわれてハイカラ化したであろうと思いのほか、来てみれば二十年前の山河は依然として緑濃まかに流れ清く、風俗亦純朴にして毫も華奢の俗悪がない、やはり元の教え草はそのまま存じて、何ら現代的風化を受けていないのは意外であった、これもまた今昔の感を禁じ得ないところである」 - 7月19日 山口町と下宇野令村の合併により山口町料理屋飲食店組合と湯田町同組合が合併し、山口町料理屋飲食店同業組合発足の総会開催。齊藤泰一が組合長に選ばれる。
- 9月1日 井上馨死去
- 福島安正(ふくしま やすまさ/1852~1919)は松本藩士の家に生まれました。戊辰戦争に参加。陸軍省に入り、明治20年からベルリン公使館に駐在。明治25年帰国に際し、ロシア経由で馬で横断して実地調査しながら帰国、「シベリア単騎横断」として世界的に有名になりました。日露戦争では満州軍参謀を務め、大正3年陸軍大将、予備役に入りました。帝国在郷軍人会副会長。
- 三宅雪嶺(みやけ せつれい/1860~1945)は加賀藩の儒医の家に生まれました。京大学哲学科卒業。自由民権運動に関わったこともあります。明治21年創刊45年改題の雑誌「日本及日本人」に、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者として雪嶺は主筆を務めました。昭和18年文化勲章受章。
- 河上肇(かわかみ はじめ/1879~1946)は岩国に生まれる。山口尋常中学校、山口高等学校、東京帝国大学を経て、京都帝国大学の経済学の講師に。大正4年、2年間の西欧留学から帰国。教授となり、大正5年から「貧乏物語」連載。同書はベストセラーになりました。戦前を代表する学者、オピニオンリーダー。
- 早川千吉郎(はやかわ せんきちろう/1863~1922)は石川県出身。大蔵省を経て明治34年から三井銀行に入り、常務取締役になりました。のち三井合名会社副理事長、貴族院議員、南満洲鉄道株式会社社長。雪舟の国宝山水図所有をしていたことがあります。
- 湯原元一(ゆはら もといち/1863~1931)佐賀藩の医師の子に生まれました。東京帝国大学卒業後、文部省に入り、各地の公立尋常中学校で教諭を務めています。明治24年から28年まで山口高等中学校教授。そのとき料亭菜香亭で洋食を食べています。のち熊本の第五高等学校教授に。同僚に夏目漱石や小泉八雲。明治40年より東京音楽学校長(東京藝術大学)。大正6年東京女子高等師範学校長(お茶の水女子大学)。大正10年東京高等学校初代校長。
大正5年(1916)
- 2月27日 山口倶楽部員による観世・喜多・宝生三派合同月例会開催。素謡数番ののち、余興として大和座開演中の三遊亭円遊、三遊亭一円遊らを招いて落語手踊りあり。晩餐を共にする。
- 5月19日 毛利家の毛利元昭公爵が祝宴。5月16日別格官幣社昇格の野田神社奉祝祭の御礼として。木戸孝正侯爵、進十六氏、小早川四郎男爵、長府毛利家の毛利元雄男爵、清末毛利家の毛利元恒男爵、右田毛利家の毛利祥久男爵、永代家老だった福原家の福原俊丸男爵、県下の貴族院議員、衆議院議員など150名参加。
大広間に入らないので、大広間と西階上と分けて饗応。毛利元昭公挨拶。在郷の古谷安民少将謝辞。芸妓30名、紋月のいでたち。会場では有志者の奉祝謡曲がありました。 - 11月11日 貴族院議員柴田家門、貴族院議員江木翼の官民大歓迎会。黒金知事ほか50余命参加。
- 11月19日~23日 忠愛公二十年祭、県庁舎落成式の祝い。11月19日夜、山口町が前知事渡辺融、現知事黒金知事をはじめ九十名招待の祝宴。
- 11月29日 山口町下金古曽津江田広吉醸造の盟主千代乃松、第九回山口県酒造組合連合会品評会で優等賞受賞した祝宴披露。
- 12月1日 憲政会山口県支部発会式が龍福寺で挙行。夜菜香亭で懇親会、加藤高明総裁、浜口雄幸総務委員の演説も行われた。
- 12月11日(菜香亭の宴会例3) 県会終了後に、県会議員懇親会。賓客として知事、郡長、町長、署長、新聞記者。
階上大広間で待合中に余興として麻生梅芳による素人芸の義太夫、菅原伝授手習鑑の寺子屋の一席。七時から階下大広間へ案内され一同着席配膳。膳上には当夜の献立を刷物にして供えてあった。三十余名の芸妓が酒間を周旋。酒がまわったころあいに、二人の老妓による滑稽「喜撰」の一幕。つづいて仮装ダンス、芸妓が洋服男装、丸髷婦人、洋装婦人、チャイナ服、女学生、男学生の姿に。ダンスのあとは小国旗をかざしてガチャガチャヒュドーンの大騒ぎに大うけ。十時解散。
- 木戸孝正(きど たかまさ/1857~1917)は木戸孝允の妹と来原良蔵の子。のち木戸家を継ぎ、侯爵に。明治23年から貴族院議員。
- 進十六(しん そろく/1844~1928)は萩藩士。有備館舎長などを経て戊辰戦争に参加。維新後は裁判所長などを務めました。
- 小早川四郎(こばやかわ しろう/1871~1957)は毛利元徳の四男。兄が小早川家を再興したが亡くなったので跡を継ぎました。妻は毛利元雄の妹。
- 毛利元雄(1877~1945)は長府藩最後の藩主毛利元敏の長男。妻は水戸藩最後の藩主徳川昭武の娘。
- 毛利元恒(1890~1966)は清末藩主最後の殿様毛利元純の孫。妻は陸奥湯長谷藩最後の藩主の孫。小野田セメント代表取締役。
- 毛利祥久(もうり よしひさ/1860~1941)は最後の右田領主毛利元統の子。妻は最後の阿川領主毛利親彦の娘。第百十国立銀行頭取。
- 福原俊丸(ふくばら としまる/1876~1959)は、宇部氏の発展を築いた福原良通の子。良通は禁門の変の責任を取って自害した福原越後の養嗣子。)
- 古谷安民(ふるたに やすたみ/1852~1918)は美祢出身の士族。陸軍士官学校旧2期。陸軍少将。
- 野田神社前の石鳥居は大正5年5月に建立されたもので、同神社が別格官幣社になった記念に建立されたことが解ります。
- 石鳥居を寄贈したのは、山県有朋、杉孫七郎、井上勝之助(馨の後継)、有地品之允【以上、左柱に記載】、寺内正毅、三浦梧楼、伊藤博邦(博文の後継)、木戸孝正【以上、右柱に記載】です。
- 野田神社の入り口前、能楽堂脇に立つ石灯籠は、防府町土木請負業粟屋菊次郎が、東京高輪会より山口野田神社への献納灯籠一対として、防長倶楽部を経て建設を請け負ったものです。十月建立。
- 柴田家門(しばた かもん/1863~1919)は萩に生まれ、内閣書記官長、文部大臣を勤めました。明治36年(1903)より貴族院議員勅撰。
- 加藤高明(かとう たかあき/1860~1926)は尾張藩士の家に生まれました。三菱入社後、岩崎弥太郎に認められ、娘婿になりました。明治20年(1887)官界に入り、明治33年(1900)から外務大臣を歴任。大正2年(1913)桂太郎主導の立憲同志会に参加し、同年の桂の死後党首に就任。大正5年(1916)10月10日、立憲同志会と中正会・公友倶楽部が合同し、憲政会が結成され、総裁に就任。大正13年(1924)から総理大臣を務め、任期中に病死。
- 浜口雄幸(はまぐち おさち/1870~1931)は現在の高知市で林業を意ちなむ家に生まれました。大蔵省に入り、次官を務めたあと大正4年(1915)立憲同志会に入党し、衆議院議員となります。加藤高明内閣で大蔵大臣、若槻礼次郎内閣で内務大臣を務めたあと、昭和2年(1927)憲政会と政友本党が合併してできた立憲民政党の総裁に就任、昭和4年(1929)から総理大臣を2年間務めました。明治生まれの初の総理大臣でした。任期中に東京駅で襲われ、そのときの傷がもとで死去しました。
大正6年(1917)
- 1月9日 広告 料亭菜香亭は久保小路にも支店を出しています。
- 1月15日 山陽電気株式会社新年宴会。
待合時間中階上広間で足立蘆光による薩摩琵琶「威海衛」の弾奏。田口光三・吉見安太郎・中山岩吉三氏の鷺流狂言「末広がり」あり。 - 大正6年 井上馨侯爵法要の為一族夫妻来山。有志による井上勝之助侯爵夫妻歓迎会。黒金前知事ら名士三十余名参加。芸妓の大内踊、山口の盆踊りあり、賓客の感興を博す。
- 4月26日 当地の池坊華道同好婦人連による生花会開催。山口の池坊による初の展示会。
- 9月23日 田中義一参謀次長、早川千吉郎ら商務省参事官の歓迎会開催。百三十余名参加。
- 10月7日 山口町碁客二段山田亀之丞主催県下囲碁競技大会開催。百余名参加。大広間で囲碁のトーナメント。
- 10月19日 山口市出身の寺内正毅が総理大臣に就任
- 11月5日 大演習陪観のため東上の途中、特急列車の出るまで時間が空いたので、長谷川好道朝鮮総督、来山。菜香亭で歓迎会。
- 12月7日(余話として) 安部家伝来ならびに所蔵その他の書画骨董品総数八百点を売却する会が開催。売上総高1万3千円。
- 森寛斎祝儀物双幅は1250円で下関市の井本氏落札。
- 狩野常信三幅対は250円で下関市の安部氏落札。
- 小田海僊松上鶴大幅は270円で下関市の古竹堂落札。
- 鷺流狂言=江戸時代には幕府の式楽として大蔵流・和泉流・鷺流が三大流派をなし、長州藩お抱え狂言方には大蔵流と鷺流がありました。明治維新によって各流派は衰退の危機に直面し、なかでも鷺流は家元が廃絶、かろうじて佐渡に本家仁右衛門派の流儀が、山口に分家伝右衛門派の流儀が町民によって現在にいたるまで伝承されています。
- 井上勝之助(いのうえ かつのすけ/1861~1929)は井上馨の兄の次男として生まれ、のち馨の養嗣子となりました。大蔵省、のち外務省に勤めました。大正4年(1915)馨の死去に伴い侯爵を襲爵。大正6年(1917)12月から宮内省の宗秩寮総裁を4年間勤め、大正10年(1922)から式部長官を5年間勤めました。
- 田中義一(たなか ぎいち/1864~1929)は、父が藩主の駕籠かきを務める萩藩士の家に生まれ、萩の乱で初陣を飾りました。20歳で陸軍に入り、大正4年(1915)から参謀次長を務めました。大正7年(1918)からは陸軍大臣を務め、大正14年(1925)政党の政友会総裁に転身、昭和2年(1927)総理大臣に就任しました。
昭和2年来亭時に揮毫された書が大広間にあります。 - 長谷川好道(はせがわ よしみち/1850~1924)は岩国藩士として生まれ、戊辰戦争に出陣。維新後は陸軍に入り、日露戦争後に陸軍大将に進級。大正4年(1915)元帥。大正5年(1916)伯爵。同年より3年間、総理大臣に就任した寺内正毅の後任として朝鮮総督を務めました。
- 安部家は、現在の山口市道場門前(安部橋そば)に居を構えていた家です。江戸時代には山口町の大年寄役・年寄役を務めた有力町人でした。山口町の経済・文化に大きな影響力を持っていました。また、屋敷は脇本陣として利用され、維新期に大久保利通・黒田清隆などが滞在しました。
大正7年(1918)
- 1月17日 山口県学務課長の桑原一郎理事官と、土木課長の笹井幸一郎理事官の送別会で140名の来会。古田安民少将の乾杯。白銀市太郎(書店主。のち第二代山口市長)は鉢木の素謡を送辞のかわりとす。
- 1月22日、山口瓦斯会社存続についての懇談会開催。町会議員、山口実業会、山口工業会と新聞記者らが参加。
- 2月25日、当地下竪小路上組壮年で組織された達成会の役員会が菜香亭支店で開かれた。
- 3月9日と10日、防長新聞一万号祝賀会が開催された。
防長新聞は明治17年7月15日創刊。大正7年3月9日に一万号を達成した。
会場の正門に国旗色モール、菊の電気花、小国旗等で装飾した大アーチが設えてあり、中央の扁額には紅白の綿で「防長新聞一万号祝賀会々場」の文字。
大広間では室内には色モール、塙、万国旗等で美々しく装飾され、入口近くに演芸場が設けられていた。演芸場には老松に旭日を描いたバックを置き、舞台の前に幔幕を張り渡し桜花数多を吊るし、その前方に花瓶と演題を据え、式辞その他が終わるや直ちに後方の幔幕は落ちて舞台が現れる趣向。
来賓は中川望知事、神代勝三県会議長、国司直行男爵(野田・豊栄神社宮司。祖父は国司信濃)、県会議員、各学校長、町会議員、将校、各新聞社員等百余名。 - 3月18日夜、三浦梧楼(観樹将軍)と児玉恕忠中将の歓迎会が開催された。三浦は三十分間演説を行った。参加者70名。
- つづいて3月21日夜には、三浦梧楼(観樹将軍)の県内有志招待会が開催された。親旧代議士や県会議員、有志者など四十二名が参加した。三浦は自席を立ち、四十二人に万遍なく巡り一々杯の交換をなした。
- 5月6日夜、済生会事務視察で来県の徳川家達公爵が、県内の済生会功労者五十名を招待した会が催された。会では徳川の挨拶に続いて、済生会病院長北里柴三郎博士と理事長大谷靖が報告的演説をした。
- 7月7日、山口倶楽部の総会が開かれた。午後1時頃より玉場、大弓場、碁会場、素謡会など各会場に分かれ、午後6時まで夢中に競技を試みた。
- 9月26日、新任の歩兵第二十一旅団長細野辰雄少将、歩兵第四十二連隊長石川忠治大佐、山口連隊区司令官林仙之大佐の三氏に対する山口町官民の歓迎会が開催された。参加者四十名。
- 山口致誠会秋季大会は従来毛利公爵家野田別邸で開催されるが目下改築工事中につき、10月13日午前10時、菜香亭で開催された。河北勘七の挨拶のあと、忠正公御栄顕記が素読された。他種々報告があった。二百名が参加。
- 10月29日、新任の第五師団長山田隆一中将の歓迎会が開催された。古谷安民少将や裁判長、検事、細野辰雄旅団長、石川忠治連隊長など数十名が参加。
- 12月5日、山口県病院長西野忠次郎の無事帰朝歓迎会が、山口町長、細野辰雄少将など参加者八十余名で開催された。
- 12月15日、貴族院議員福原俊丸が、菜香亭での木梨男爵家婚儀に列席。■12月17日、中川望知事が県会議員一同を始め県政記者倶楽部及び県会関係の書記を招待して一夕の宴。
- 12月22日、山口倶楽部忘年会。
- 桑原 一郎(くわはら いちろう/1883年~ 没年不詳)は、宮野(山口市)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学を卒業し、島根県・大分県・沖縄県警察部長を務めたのち、朝鮮総督府事務官に転じた。退官後は宮野村長や防長新聞社長などを務めた。
- 笹井 幸一郎(ささい こういちろう/1885~1938)は、新潟県出身。東京帝国大学卒業後、内務省に入省。奈良県知事・愛媛県知事を務め、退官後は長崎市長も務めた。
- 古谷 安民(ふるたに やすたみ/1852~1918)は岩永村(美祢市)士族出身。西南戦争にも出征。退官時に少将となる。伊勢小路にあった武学生養成所(※山口県愛山会武学講習所)所長。
- 中川 望(なかがわ のぞむ/1875~1964)は、宮城県出身。仙台藩士に生まれる。東京帝国大学卒業し、内務省に入省。1917年12月から山口県知事。その後、鹿児島県知事・大阪府知事。退官後は日本赤十字社副社長・錦鶏間祗候・貴族院勅選議員・枢密顧問官。
- 児玉 恕忠(こだま じょちゅう/1849~1923)は、長州藩士粟屋家に生まれる。戊辰戦争に出征後、陸軍に入った。また児玉少介の養子となる。 陸軍少将で日露戦争に出征。1907年、中将昇進と同時に後備役に編入。
- 後日談 10月31日付記事より。
「三浦梧楼が山口に来たおり、菜香亭の女中おさだ等三人が同行の児玉中将の口添で一枚ずつ書いてもらうことになり、現物は三浦が帰京後送り届ける約束であった。
たしかに三人分三枚を菜香亭宛に送ったにもかかわらずいっかな届いたとも届かぬとも返事がないので児玉中将が用のついでに知人に手紙で問い合わせたので、知人がおさだに訊ねた。ところが逆に、あれほど懇願したのに何故送ってくださらぬと恨んでおりましたといわれ、知人は児玉中将に届きませんとも返事が出来ず、下記方面を厳探中との話。」 - ※德川 家達(とくがわ いえさと/1863~ 1940)は、徳川慶喜のあとをついで徳川宗家第16代当主。もとは田安徳川家第7代当主で、静岡藩初代藩主。貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任。
- ※北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう/1853~1931)は熊本県出身。ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法開発など、「日本の細菌学の父」といわれる。このころは、恩賜財団済生会芝病院初代院長、大日本医師会会長、慶應義塾大学医学部初代学部長。のち、日本医師会初代会長、貴族院議員、男爵。
- ※大谷 靖(おおや やすし/1844~1930)岩国藩士。福岡県に出仕後、同県権典事を経て大蔵省、内務省の役職を歴任。退官後は済生会理事長、錦鶏間祗候、貴族院議員。
- ※細野辰雄(ほその たつお/1872~1935)は石川県出身。日清・日露戦争やシベリア出兵に従軍。陸軍大学校兵学教官、第六師団参謀、歩兵第二十一旅団長を歴任。陸軍少将。
- ※石川 忠治(いしかわ ただはる/1872~没年不明)は歩兵第42連隊長(第5師団、歩兵第21旅団)に任官し、シベリア出兵に従軍。陸軍少将に昇進と同時に待命、予備役に編入した。
- ※林 仙之(はやし なりゆき/1877~1944)は、熊本県出身。山口連隊区司令官のあとは、陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長、朝鮮軍参謀長、陸士校長などを歴任。陸軍中将に進級し、教育総監部本部長、第1師団長、東京警備司令官などを歴任。陸軍大将昇進と同時に待命、予備役に編入した。のち大日本傷痍軍人協会会長を務めた。
- ※山口致誠会は、明治16年頃、忠正公(旧藩主毛利敬親)に由緒ある人たちが、公の遺徳を追慕崇敬する集まりを組織したことに始まる。発起人は旧家臣の杉民治、河北一、吉田右一らが中心。当初は、忠正公の御祭典を執行し、公の賢徳を忍び、恩特を議すもので、内輪の談話会だったが、参加者の増大で、明治21年、長門部は萩町を中心にして懐恩会が、周防部では山口町を中心に致誠会が分立組織された。
山口致誠会の定例会は3月17日と10月17日。また、忠正公の御正祭日の5月17日は香山園御廟所へ礼服を着用して参拝することが義務付けられていた。
各会は防府毛利邸事務所に総会開催通知を出し、毛利家当主の出席を要請、当主元昭はできるだけ参加された。
会場では忠正公の事績を記述した「忠正公御栄顕記」を必ず奉読し、ほかに忠正公を偲ぶ講演が行われた。
各会の秋季総会では、1月11日の防府毛利邸の新年伺候会と、4月の東京高輪邸で行われる春季御例祭へ出席する栄誉に浴することができる会員を抽選で選ぶという催しもあった。
会は戦後の時世の変動からいつしか行われることがなくなり、消滅した。 - ※河北 勘七(かわきた かんしち/1864〜1936)は、萩藩士・河北一の長男として山口で生まれた。ブリュッセル大学留学後、若くして衆議院議員に当選。また、日本遠洋漁業株式会社を創立し、東洋捕鯨株式会社成立を機に経営から退く。小野田セメント会社が苦境に陥ると社長に就き、業績回復まで務めた。1922年から山口町長に就任し、合併による山口市の発足を図った。
- ※山田 隆一(やまだ たかかず/1868~1919)山口県出身。日露戦争に第2軍参謀として出征。その後、軍務局軍事課長などを経て、陸軍少将に昇進。 歩兵第11旅団長、陸軍歩兵学校長、軍務局長、陸軍次官などを歴任し、陸軍中将に進んだ。1918年10月、第5師団長に就任したが、翌年3月急逝。
- ※西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう/1878~1961)は、山形県出身。東京帝国大学卒業後、山形市立病院済生館々長ののち山口県立病院長に就任。日本赤十字山口支部病院長を経て、慶應義塾大学教授。同大学医学部長兼病院長、同大学名誉教授、日本学士院会員。
- ※福原 俊丸(ふくばら としまる/1876~1959)の父は福原芳山。祖父は福原越後。旧宇部領主福原氏第27代当主。 帝国大学機械工学科卒業後、大蔵省臨時建築部技師となる。大正3年から貴族院議員。
この年は料亭菜香亭の存続問題が記事になっていた。
1月30日付記事
菜香亭の廃業/又々経営困難のため
当地野田菜香亭は従来屡次経営困難に陥りさきに町内有志の斡旋に依り再興し営業し居りしが二月以後は宴会益々少きため収支償はず遂に昨二十九日夜の宴会を最後として又もや廃業の止むなき悲運に陥りたり、右につき梅田治輔、河北勘七、吉田乙熊の三氏は二十九日午後前田町長を訪ひ善後策につき密々協議する処ありしが今後如何になり行くやは不明なりと。
1月31日付記事
菜香廃業余聞/某関係者の談話
当地第一の宴会場として著名なる野田町菜香亭が又もや経営困難の理由を以て廃業の止むなきに至りし事は既報の如くなるが某関係者は語って曰く、菜香亭はあれ程の大きな構へだから諸種の経費も頗る多額に上り、月々多き時は千円、少き時も五百円を下らず、一年平均にして七百四五十円は是非必要なのである、然るに宴会の数は甚だ少なく、毎年十一月十二月一月だけはどうにか出来るが二月以後は全然駄目である、元来菜香亭では非常に安価主義を執り随って儲けは料理屋に似ず僅かに二割に過ぎないから、少々の宴会があった位では遣れないのである、従来の例を以てすれば宜い宴会で水揚げが二百円位、是れなら儲けが二割の四十円になる故毎日宴会があれば大分宜く多少隔日の時があっても遣れるのだが、斯うした宴会は一年間を通じて月に六七回に過ぎず、そんな状況では全く末の見込みが立たぬ、従って現状の儘では事業を維持し継続するのは労して効なき事なのだ、例の四千円頼母子講は滞りなく成就したのであるが今それを貰ったとても返せる見込みがない、又、菜香亭の様なものを抱へて居っては一時四五千円の金があった位では一二月狂へば直ぐ駄目だからあの頼母子は貰はないで此儘廃業するつもりである云々
3月28日付記事
サイコウ説/菜香亭復興説再興す
昨年中町会議員其他有志の斡旋にて再興し宴会の書入れ時たる十、十一、十二、一月の四ヶ月間開場しただけで、忽ちバッタリ閉場したる城北菜香亭は暫らく其儘に打チャラかして居たがさき程依頼又もや再興説が再燃して来た。事の起りは券番取締の大賀信一氏からで、氏は山口唯一の大宴会場が閉場してると云うのは町の面目からも町民の便不便からも甚だ面白くないから、ここ一番料理屋と芸妓屋とが一肌脱いでやったがよいと主張した。そして従来の線香代一本十銭を十一銭に値上し、かくすれば当然料理屋の線香収入が三銭一厘五毛に上るゆえその一厘五毛を支出せしめて合計五厘を菜香亭に補助すべしとの事になった。即ち換言すれば菜香亭と料理屋と券番とが合同してやろうと云う事になって、話は次第に進捗して行ったのであるが、急に券番側から前議を中止すると云い出した。それではいかぬと一同が頻りに慫慂してやっと一年間は共同でやろうと折れて出たかと思えば今度は料理屋側の内に線香代の値上げ迄して菜香亭に補助するとは聞えぬ話だ、それでは一番大切な御得意様に対して相済まぬとあって、線香代はこれ迄通りとし其内から一厘五毛だけは吐き出してやろうと主張する一派が勢力を得、衆議は遂に一決して連署捺印の上券番に交渉したところが、相手にはそれ程までの義侠心が無い事が判って又々一頓挫を来してしまった。それで菜香亭が料理屋側義侠の一厘五毛の補助を受けるだけで満足して開場するとの決心ならば今すぐにもめでたく再興する次第であるがそれは不明の問題である。尤も菜香亭主人は同業者一同からかくも甚大なる同情を受くる以上は其の顔も立てねばならず、少々の欠損は見越して開場するらしい口吻を洩らしてるから、或は思わず早く纏まりがつくかも知れない。又従来の線香一本に付一厘五毛でも線香焚高が平均一ヶ月四万本は確かだと云えば金にして六十円、年額は七百円となる勘定だから満更捨てたものではない。これに券番から三厘五毛出すとなれば、更に千六百八十円を追加する事になって合計二千四百円となる。がそれは出来なくても今回は菜香亭も同業者の義気に益々発奮してる矢先故補助などの多寡は眼中に置かず、思い切って再興に決するだろうと観測する者もある。又、株式組織を希望してる向もあるとの事なれば、今後問題がいかなる風に展開するかは面白い見物である。
6月2日付記事
菜香の再興
山口名物の料亭菜香が昨年秋堂々開業されたがどうしても収支決算相償わずとあって間もなく閉店のやむなきに至り其後二度ほど種々な方法の下に開業すべしとの噂もあり又世間一般からも是非開業して貰いたいとの希望もしきりにあったが何を云うにもあれほどの大掛りであるからなかなか其運びに至らず其儘今日に至れるを今度は諸掛り万事節約主義で開業しどうかな年末年始の盛り場迄漕ぎ付けてみようとの決心で昨一日から開業する事になった。名義は勿論齋藤幸兵衛氏で当務一切は菜香亭支店の弟主人が切り廻し夏枯の間一ヶ月二千円の経常費で間に合わせる目論見らしい。勿論今度は大料理屋ぶりでなく上下一般を通じて万事御客の便利を本位に御注文とあれば弁当一本の出前でも昼食一飯の軽便な膳部でも直ぐ用便して利益を見ずに此夏枯を過し行くべしとの事である。こうなれば或はやってゆけるかも知れない。どうでもよいから此山口名物を保ちたいものだと一般が云っている。
町ぐるみで心配されており、当時から料亭菜香亭が地元の人に愛されていたことが分かる記事です。