山口市菜香亭|山口県山口市

菜香亭の歴史

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明治の有名人続々来亭

料亭菜香亭には明治政府の高官や文化人、著名人が来亭され、「山口の迎賓館」の様相を呈しました。以下、年表風に紹介します。

明治16年(1883)3月、山県有朋[1]、菜香亭に来亭、揮毫。

画像:山県有朋揮毫

この年、山県有朋は維新以来久々に山口に帰ってきました。
料亭菜香亭にもあがられ、そのときこの書をかかれました。大広間上の間に掲げています。
「江山豁如」は、山野が開けたさまをいい、転じて眺めがいいという意味で、料亭と人生の展望と、ともに眺めがよかったのかもしれません。同年12月内務卿に就任し、日本の実質的トップに立ちました。

明治16年(1883)5月、佐々木高行[2]、菜香亭に来亭、揮毫

画像:佐々木高行揮毫

佐々木高行はこのとき工部卿として近代国家に必要な公共事業を一手に担っていました。この年、西日本視察が行われており、山口にも立ち寄ったとおもわれます。
書は南客間に掲げています。
「酔有誼」は酒を飲んで仲良くなったという意味で、ここで長州の人と親しくなったのかもしれません。

明治17年(1884)

11月17日、原保太郎知事[3]が毛利元昭[4]、井上馨らを招待。

明治18年(1885)

画像:山田顕義揮毫

5月、山田顕義[5]、裁判所の視察で来山。そのさい料亭菜香亭に来亭、揮毫。

山田顕義は当時司法卿。この年12月に内閣制度が創設され、初代司法大臣に就任しました。
書は大広間中の間に掲げています。
「万象具眼」は、物事の是非を判断し、本質を見抜く能力があるという意味です。
為書に「齊藤居士」とありますから、初代主人と元来知り合いだったかもしれません。

画像:杉孫七郎揮毫

杉孫七郎[6]、料亭菜香亭に揮毫。

杉孫七郎は当時皇太后宮大夫を、また日本美術協会初代副会頭も務めていました。
この年の7月29日から31日までの3日間、明治天皇が山口を行幸されており、その前後に来亭されたのかもしれません。
書は大広間下の間に掲げています。
「有趣」は趣があるということです。

明治22年(1889)

  • 11月5日 毛利元昭、来亭。毛利重就没後百年祭のため帰山。
  • 11月7日、井上馨が一族の親睦会を菜香亭で開催。毛利元昭も参加。
  • 11月9日、原保太郎知事主催の宴会が菜香亭で開催され、毛利元昭夫妻、井上馨も参加。

明治24年(1891)

  • 9月20日伊藤博文、原保太郎知事の招待で来亭。
  • 9月21日伊藤博文、忠正公銅像建設発起人の招待で来亭 。

※7月13日 料亭初代主人幸兵衛逝去

明治26年(1893)

画像:三浦梧楼揮毫

三浦梧楼[7]揮毫。

この年、山口高等中学校寄宿舎で生徒のストライキが起こり、全員退校処分となりました。この時、三浦梧楼が仲裁に入り、生徒の復学が認められました。
そういうときに来山されて書かれたものでしょうか。
書は北客間に掲げています。
「魚躍」と書かれてあります。

明治29年(1896)

  • 4月26日、井上馨が一族を集めて還暦祝いを催す。※「井上馨の還暦祝い」参照
  • 12月25日、毛利元徳逝去。同月30日国葬、三代目主人泰一参列[8]

明治30年(1897)

画像:巌谷一六揮毫

7月1日、巌谷一六[9]来亭、揮毫。

巌谷一六は当時貴族院勅選議員。また、書家として全国を廻り、各所に揮毫を残しています。
この年、山口に滞在し、本陣を勤めた安倍家に屏風書を残しています。
書は大広間下の間に掲げています。
「菜香亭」の文言は主人がお願いして看板代わりに飾ったものかもしれません。

明治32年(1899)

  • 4月1日、桂太郎[10]来亭。
  • 5月31日、伊藤博文、来亭。※「伊藤博文の演説会」参照
  • 6月14日、西郷従道[11]来亭。
西郷従道は内務大臣として県治巡視に来山しました。
料亭菜香亭での歓迎会には100名以上が参加しました。
古沢知事が長々と歓迎の挨拶をしたあと、西郷従道が袴を掲げて席を進め、
「皆さん今日はありがとう」
とだけ発して、一礼するとすぐに着席。
西郷従道は視察でも各所における挨拶は至って簡単で、「皆さんお勉強で」とのみ。先日来山した伊藤博文がいたるところで千言万語口をついてでるのとは全く違ったとのことです。
歓迎会は静寂のうちに進み、知事の発声で西郷侯爵万歳を三唱したあと、数十名の芸妓が出てきて一曲を奏しました。
それが終わるや、中央の席より
「お互いにこりかたまりては家業の邪魔よといふて逢わずに居られやせぬ」
と大声で都都逸をうたう者がいるので、みなが驚いてみれば、主賓の西郷従道だったことから、万場が沸きました。
その後、甚句に相撲踊りが始まると、西郷従道は満足の体で、人が歌えば我も歌い、人が踊れば我も踊る、あたかもひげのある子どものようだったと当時の防長新聞に書いてあります。

※10月16日 料亭二代目主人鶴蔵逝去

明治33年(1900)

画像:巌谷一六揮毫

4月18日 亀山公園の藩主等五公銅像除幕式で帰郷した井上馨、地元の親族を集めて饗宴。伊藤博文も同席のもよう。

当館で常設展示している画像の蓋附吸物椀は明治時代の輪島塗です。戦前に大臣一行が来亭されたときのみ使われたものです。19客ありますが、富士の金蒔絵がそれぞれに違います。明治の大臣方も椀で舌鼓をうたれたこととおもいます。

明治34年(1901)

  • 4月30日 日本赤十字社山口支部第二回総会に出席された小松宮彰仁親王[12]を山口町が菜香亭に招待。
  • 5月18日 野田神社式年祭で来山された毛利元昭夫妻及び毛利敬親夫人、毛利元徳夫人ら毛利家諸公が山口町有志に招待されて来亭。
  • 5月20日、高田早苗、来亭。
  • この日、山口の劇場で高田早苗の演説会が開催されました。高田早苗はのち早稲田大学初代学長となりますが、このときは大学設立の基金募集のための遊説でした。種田山頭火はこの演説を聴いて、東京専門学校(早稲田大学の前身)入学を決めたようです。当時山頭火は旧制山口中学を4月に卒業し、補習科に在籍中でした。

明治35年(1902)

  • 2月25日 西田幾多郎が菜香亭で会合。
  • のちに世界的哲学者となる西田幾多郎は、当時山口高校の教師でした。料亭菜香亭近くの竪小路に下宿していました。

明治39年(1906)

  • 10月22日 毛利家が毛利元徳公銅像除幕式の参列者数十名を菜香亭に招待。
  • 10月23日 毛利家・旧四支藩一同・貴賓紳士・随行員67名の宴会が菜香亭で開催。
  • 10月24日 毛利家諸公先輩歓迎式が菜香亭で開催。
  • 忠愛(毛利元徳)公十年祭及び毛利元徳公銅像除幕式で、井上馨、野村靖[13]、野村素介[14]、杉孫七郎、井上勝、楫取素彦らが来山されました。これらの方々が菜香亭に来亭されたとおもわれます。

明治38年(1905)

  • 4月6日~翌年2月 ロシア将校捕虜を菜香亭に収容。

明治41年(1908)

4月8日~4月12日 皇太子(大正天皇)山口行啓。伊藤博文、井上馨、桂太郎も来山。この間、料亭菜香亭は供奉人の食事を世話したことから後日桂太郎より書を頂戴しました。

画像:桂太郎揮毫

大広間下の間に掲示している桂太郎の書です。
「鶴駕入鴻城/皇恩潤二州/戊申四月 太郎」
かくがこうじょうにはいり、こうおんにしゅうをうるおす、と読みます。
意は、「皇太子の車が山口盆地に入り、皇太子の恩が山口県を潤した。明治41年4月 桂太郎」になります。

  • 4月14日 山口官民有志が井上馨を料亭菜香亭に招待。経済について講演。
  • この他にも年月は不明ですが、扁額があることから来亭されたとわかる方がいます。幕末に活躍し、そののち近代日本の礎を築いた後藤象二郎[15]と大鳥圭介[16]です。
後藤象二郎揮毫
南客間に飾っている扁額、後藤象二郎の書です。
「淵黙雷声/光海鴎公」
荘子の一節で、深い沈黙が雷となって鳴り響くの意。
後藤象二郎揮毫
大広間下の間に飾っている扁額、大鳥圭介の書です。
「天意憐迷艸/人間重晩晴」
天の意思は道に迷う人を優しく見守ることにあり、人間は晩年の穏やかな日々を重んじるべきという意です。

[1]山県有朋(やまがた ありとも/1838~1922)

萩市出身。陸軍元帥。元老。公爵。1889~91、98~1900年総理大臣。武士階級で最も低い中間の家に生まれ、松下村塾でわずかな間だけ吉田松陰に学びました。のち奇兵隊に入って頭角を現し、実質的リーダーとし発言力を増しました。明治2年西郷従道と渡欧し、帰国後は軍政を担当、徴兵令・軍人勅諭など基礎をつくりました。さらに地方行政の制度や試験登用による官僚制度など国家体制づくりも行いました。また文化方面においても「椿山荘」「無鄰菴」「古稀庵」など近代日本庭園の先駆けとなるものを作りました。

[2]佐々木高行(ささき たかゆき/1830~1910)

高知県高知市出身。侯爵。後藤象二郎・坂本龍馬とともに大政奉還に尽力しました。明治以後は参議、工部卿など務めました。のち明宮(大正天皇)の養育係主任も務め、宮中と深く関わりました。

[3]原保太郎(はら やすたろう/1847~1936)

園部藩(京都府南丹市)士。岩倉具視の食客から戊辰戦争では上野国巡察使兼軍監となり、幕臣小栗忠順斬首に関わりました。欧米に留学後、明治14年(1881)年から明治28年(1895)年まで長きにわたって山口県知事を務めました。下関での日清戦争講和会議で李鴻章が狙撃された事件の責任をとって辞任。その後は福島県知事・北海道庁長官などを務めました。

[4]毛利元昭(もうり もとあきら/1865~1938)

萩市出身。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、毛利元徳と銀姫(安子)の長男興丸(おきまる)で登場し、主人公杉文がお世話をしたことから有名になりました。明治30年(1897)家督を相続し、公爵・貴族院議員に就任。来山のときは野田別邸(その跡地に移転したのが山口市菜香亭)に滞在し、料亭菜香亭を贔屓にされていました。

[5]山田顕義(やまだ あきよし/1844〜1892)

萩市出身。伯爵。松下村塾で吉田松陰に学びました。禁門の変、下関戦争、功山寺の決起に参戦しています。大村益次郎に西洋兵学を学び、四境戦争では高杉晋作の丙寅丸の砲隊長として大島の幕府艦隊に奇襲。その後、御楯隊司令として芸州口で戦いました。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦い、北越戦争、函館五稜郭の戦いに参戦。兵部省で大村益次郎の遺志を継ぎました。明治3年湯田温泉の旅館瓦屋の娘と結婚。岩倉使節団に参加し、帰国後は司法大輔に就任。内閣制度では初代司法大臣を務め、法律の近代化の基礎をつくった。明治22年のちの日本大学、明治23年のちの国学院大学を創設しました。

[6]杉孫七郎(すぎ まごちしろう/1835~1920)

山口市出身。子爵。文久遣欧使節に参加し、長州藩士で初めて外国へ渡りました。元治の内訌では中立派議員の代表として収拾に動きました。四境戦争では石州口参謀を務めました。維新後はおもに宮中を活躍の場としました。書に秀で、明治能筆三筆の一人、長州三筆の一人といわれています。

[7]三浦梧楼(みうら ごろう/1847~1926)

萩市出身。奇兵隊に入隊し、明治維新後は兵部省に出仕、陸軍中将になりました。藩閥政治打倒を訴え、政党政治に尽力しました。自伝が中公文庫より出ています。

[8]毛利元徳国葬

明治29年12月23日、毛利元徳は東京高輪邸で危篤に陥りました。24日明治天皇は旭日桐花大綬章を賜いました。25日元徳死去。26日勅使が高輪邸に臨み、誄詞を賜い、同日国葬を仰出されました。30日、東京の瑞聖寺境内に殯葬され、忠愛公と諡されました。明治31年3月23日、毛利家香山墓所に墓が移座されました。

毛利元徳国葬
「従一位勲一等侯爵毛利元徳卿国葬行列(山口県文書館所蔵)」
12月30日、邸宅のある東京高輪町を北へ向かい三田通りへ進んでいるところです。写真は東京赤坂溜池増原熊太郎撮影。
名簿
「故従一位公薨去ニ付御達類(山口県文書館所蔵)」には、国葬に参列した人への返礼の名簿があります。その中に、「山口上立小路 齋藤幸兵衛代理 齋藤泰輔」とあります。「齋藤泰輔」はのち三代目主人齊藤泰一のことです。
また、御霊前備物に対する返礼の名簿には、「一縮緬帛紗一枚宛大巾 二百二十二枚」の中に、のちに大臣を歴任する曽根荒助、県知事を歴任する内海忠勝、高杉晋作の子東一の名とともに「齋藤幸兵衛」の名があります。
これらのことから齊藤家は毛利元徳と何らかの関係があったと推測されます。
毛利元徳国葬
料亭菜香亭には毛利元徳の短冊が所蔵されています。
「月前虫/月影のくらき森の草むらの/奥まですめる虫の声かな」
毛利元徳(もうり もとのり/1839~1896)は、萩藩の第14代(最後の)藩主。公爵。幕末は父敬親を補佐して国事に活躍。明治2年家督を継ぎ、藩知事に。明治4年の廃藩置県で東京へ移りました。

[9]巌谷一六(いわや いちろく/1834~1905)

滋賀県甲賀市出身。水口藩の藩医の家に生まれました。明治新政府の官吏となり、元老院議官を経て貴族院勅撰議員に就任。書家として有名で、中国の六朝風の書体を会得し、一六派をひらきました。日下部鳴鶴・中林梧竹とならんで明治三筆の一人です。

[10]桂太郎(かつら たろう/1848~1913)

萩市出身。陸軍大将。元老。公爵。1901~1906、1908~1911、1912~1913年総理大臣。上級武士の桂家長男。毛利元徳の小姓役を経て、四境戦争石州口の戦いに参加しました。戊辰戦争では奥羽各地を転戦、若年ながら部隊を率いて功績をあげました。ドイツ留学後に陸軍に入り、台湾総督、陸軍大臣を経て総理大臣となりました。在職日数は2886日で最も長く、この間日露戦争を勝利に導きました。来亭当時は陸軍大臣で、地方視察の途中で山口に寄られたものです。

[11]西郷従道(さいごう じゅうどう・つぐみち/1843~1902)

鹿児島県鹿児島市出身。西郷隆盛の弟。元老。侯爵。はじめ精忠組に入り、寺田屋事件にも関係しました。戊辰戦争転戦後に山県有朋とともに渡欧、帰国して陸軍に入りましたが、内閣制度創設とともに初代海軍大臣に就任。明治31年海軍で最初の元帥となっており、来亭のときは海軍元帥でもありました。

[12]小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう/1846~1903)

伏見宮邦家親王第八王子として生まれました。戊辰戦争では奥羽征討総督を務めました。その後も皇族軍人として活躍し、日清戦争では征清大総督に任じられ出征、のち元帥になりました。社会事業にも取り組み、日本赤十字社総裁、大日本武徳会総裁など多くの団体の総裁を務めました。

[13]野村靖(のむら やすし/1842~1909)

萩市出身。子爵。兄は禁門の変で戦死した入江九一。妹は伊藤博文の先妻すみ子。松下村塾門下生として攘夷運動に従事したのち藩内訌戦や四境戦争で活躍。維新後は岩倉使節団の一員として渡欧。神奈川県令・逓信次官等を歴任。第2次伊藤博文内閣で内務大臣、松方正義内閣で逓信大臣を務めました。

画像:野村靖の漢詩
料亭菜香亭には野村靖の漢詩の掛軸が所蔵されています。
「世事等浮雲何/是非逢場作戦/春光如絵画直/須待見景生情/為菜咬園主人/於廛靖」
為書に「菜香亭」にひっかけた「菜咬園」があり、菜香亭主人の為に書かれたものです。

[14]野村素介(のむら もとすけ/1842~1927)

山口市大内長野出身。明倫館に学び、維新前後の藩政中枢を担いました。欧州視察後、文部省に出仕。書をよくし、書道奨励会会頭をつとめました。 杉孫七郎、長三州とともに長州三筆の一人と言われています。山口 市内にある、香山墓地の毛利敬親公を称える勅撰銅碑、湯田の井上馨遭難之碑、亀山公園の周布政之助碑・木嶋又兵衛碑はいずれも素介の書が彫られています。

画像:野村靖の漢詩
料亭菜香亭には野村素介の漢詩の掛軸が三本所蔵されています。
そのうちの一つです。
「一代帥儒推棟梁/西朝匡弼是忠良/凛然留此貞亮在/付与梅美千載香/菅公千年祭珪奠 野素」
菅原道真千年祭に詠んだものです。

[15]後藤象二郎(ごとう しょうじろう/1838~1897)

高知県出身。伯爵。幕末は坂本龍馬とともに大政奉還に努めました。維新後は参議など要職につきますが征韓論争で下野しました。その後明治20年から27年のあいだ政府に出仕し、黒田清隆内閣と松方正義内閣で逓信大臣、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣を務めました。来亭されたのはそのあいだの全国視察中のことかもしれません。

[16]大鳥圭介(おおとり けいすけ/1833~1911)

兵庫県出身。男爵。 大阪・適塾出身。江川塾から教授として招かれ、砲術・兵法・造船を指導し、黒田清隆・大山巌らを教えました。その後、幕臣となり函館五稜郭で戦いました。 維新後は、伊藤博文初代工部卿のもと工部省に出仕し、工部大学校々長など主として教育に尽力。辰野金吾・片山東熊・高峰譲吉・藤岡市助らが巣立ちました。 ついで学習院長を務めたのち、第2次伊藤内閣においては清国駐在特命全権公使とともに朝鮮国駐剳公使を兼任し、日清戦争直前の外交を担いました。

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