菜香亭の歴史
井上馨の還暦祝い
明治29年4月26日、料亭菜香亭で井上馨[1]の還暦祝いが催されました。
そのとき揮毫して頂いた書が大広間に飾られています。
明治29年は、4月15日から19日までの間、毛利元昭[2]が故三条実美の三女美佐子と山口で結婚披露を行いました[3]。井上馨は毛利家の顧問のような地位にいましたので、同席することにしました。そのついでにせっかく帰郷するのだから山口で還暦祝いをすることにしたものです。
参加した林勇蔵によると、還暦祝いは菜香亭で4月26日午後5時より始まりました[4]。
来賓85名、給仕無慮70人。
この中には、井上馨の姉の孫である鮎川義介[5]も参列していました。
一同は盃を井上馨より頂戴の姿にして頂戴し、返盃は林勇蔵が総代として盃を持って井上夫婦の前に出ていって献し、「処は高砂」を謡いました。
ついで三遊亭円朝[6]の講談がありました。
散会したのは午後11時20分のことでした。
この帰郷中には別の日に、山口大神宮で行われる相撲に知人と賭けて、負けた方が菜香亭で御馳走するという勝負を行い、井上馨が見事に勝っています[7]。
また井上馨は、幕末以来親しい万代家の招待を受けて、十朋亭でも旧交を温めました[8]。
[1]井上馨
井上馨(いのうえ かおる/1836~1915)は明治17年7月の貴族令で伯爵となりました。明治18年、内閣制度が制定されると初代外務大臣に就任し、不平等条約改正に努力しました。その後、第二代首相黒田清隆のもとで農商務大臣、第二次伊藤博文内閣のもとで内務大臣を務めました。明治27年に日清戦争が始まると朝鮮公使を、翌年の終戦まで務めました。明治28年11月からは別荘に引きこもり、明治31年1月の大蔵大臣就任まで国政には関わらない生活がつづきました。
[2]毛利元昭
毛利元昭(もうり もとあきら/1865~1938)は萩市出身。2015年度NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、毛利元徳と銀姫(安子)の長男興丸(おきまる)で登場し、主人公杉文がお世話をしたことから有名になりました。明治30年(1897)家督を相続し、公爵・貴族院議員に就任。来山のときは野田別邸(その跡地に移転したのが山口市菜香亭)に滞在し、料亭菜香亭を贔屓にされていました。
[3]毛利元昭公の山口での結婚披露
4月15日、萩での結婚披露を終えた元昭夫妻が夕方山口野田邸に入り、井上馨夫妻は瓦屋に宿泊しました。井上夫妻は披露に常に同席していました。
4月16日、元昭夫妻は、野田邸内の書院で致誠会員198名へ挨拶、そのあと会員を招いて野田神社社務所で立食しました。
つづいて午後4時、県庁高等官、裁判官、陸海軍将校、当地名望家88人を野田別邸に招き、書院で挨拶し、立食。招待客には万代利七、八木宗十郎らがいました。
17日は、毛利一族の旧八家の夫妻を野田別邸に招き談話、御酒御膳部でもてなしました。
18日、山口高等学校運動会に招待されて元昭夫妻と井上夫妻が出席。
夜は野田邸に当地名望家29名を招いて挨拶、御酒御膳部等で宴会されました。林勇蔵、吉富簡一、村尾マツ(野田学園創設者)、笠井順八らがいました。
19日、三田尻で披露のために出発しました。(防長新聞より)
[4]出席した林勇蔵の回想
「廿六日午後五時より井上伯山口菜香亭に於て耳順の賀宴を設けり。来賓八十五名、給仕無慮七十人なりき。年長者を以て上席と為しければ吉富簡一翁の右手を取り、森左手を取り、上司背を押し、有無を言はさず翁を上席に置けり。一同膳辺据附の盃を伯より頂戴の姿にして頂戴し、返盃は翁総代として盃両箇を持し、伯夫婦の前に出て往きて之を献し、『処は高砂』の謡を始めければ堀伴成之を助けり。続て出淵円朝の講談あり、散会午後十一時二十分。因に歌妓久之助よく翁に附添ひ、車に乗るまで丁寧に世話なりとぞ。」(維新史料大庄屋林勇蔵 小郡郷土研究会)
- ※林勇蔵(はやし ゆうぞう/1813~1899)は小郡宰判(現在の山口市南部)の大庄屋として地元の発展に尽くしました。幕末、元治の内訌戦では高杉晋作・井上馨らの正義派を積極的に支援し、勝利の一因を成しました。このことから井上馨、山県有朋ら当時の人達より明治になって篤く礼を尽くされています。
[5]鮎川義介の回想
「侯は、私が中学五年に進級したころ、還暦の賀を山口で催された。旅のお伽を承っていた三遊亭円朝には中学、高校生全部に〝塩原多助一代記〟を話しさせた。もとより本場の噺家、しかも名人の一席は聴衆にこよなき感銘を与えたもので、当時の印象は長く防長教育会の人々の語り草となって今に残っている。また帰りに配られた羽二重餅も特別あつらえであったと覚えている。しかし、何分、若輩の私にとって井上侯は、ただ〝偉い人〟として近寄りがたい存在であった。もっとも、侯はそのころから、私に目をかけていたようである。」(「私の履歴書」鮎川義介 日本経済新聞社)
- ※鮎川義介(あゆかわ よしすけ/1880~1967)は山口市大内御堀生まれ。母が井上馨の姪にあたります。旧制山口高校卒業まで山口で過ごしました。在学時に井上馨より政治家でなく実業家になることを命じられ、東京帝国大学工科大学機械科へ進学しました。卒業後は一職工として日米の工場で勤務。明治43年井上馨の支援を受けて北九州に戸畑鋳物株式会社を創立。その後、多くの事業に着手し、多くの会社を設立、昭和初期に日産コンツエルンを形成するまで拡大させました。
[6]三遊亭円朝
三遊亭円朝(さんゆうてい えんちょう/1839~1900)は、落語家の名人のなかでも一番の名人といわれています。
井上馨の愛顧を受け、井上の別荘や旅行するときによく同行しています。明治25年病気のため一度廃業しましたが明治30年復帰。井上馨に連れられて山口を訪れたときは廃業中でした。
山口の学校等で行った演目は、明治24年井上馨邸で明治天皇の前でも公演した「塩原多助」でした。料亭菜香亭でも「塩原多助」を演じたと思われます。
円朝への謝礼金
「『円朝遺聞』によると、山口で円朝が口演したとき、土地の有志に謝礼の額をたずねられた井上が、家令を呼んで聞いてみると『日本一といわれる義太夫の越路太夫を邸にまねいたときは百円だった』と答えた。同じ日本一の円朝だから、一席百円でよかろうと井上侯が有志に返事したため、一席につき百円、二席演じたときは二百円の謝礼を受けることとなった。
帰京してから円朝は若林玵蔵に「井上さんも人が悪いが、私も二席で二百円の報酬は初めてです」と語ったという。
当時、円朝への謝礼は、個人的な――いわゆるお座敷で十五円(藤浦富太郎談)、公開の会などで二十五円程度であったから、山口で得た謝礼は破格のものだった。」
(「新版三遊亭円朝」永井啓夫著 青蛙房刊)
菜香亭宛の三遊亭円朝からの礼状
[7]菜香亭所蔵の井上馨の手紙
かつて料亭菜香亭の階段に飾られていた井上馨の手紙は、このときのものです。
『明治二十九年 大神宮祭礼の日
今日は無為に消日罷在候折柄堀伴成氏来訪、大神宮祭礼にて花角力有之故、見物、如何との催促有之故、只の見物は面白くも無之候間、角力勝負を以てかけにして若し一方負けたる者は拾五円丈の金を以て菜香亭に於て会席の馳走ならば同意致すべく申ところ承諾との事にて幸にして東方に加担候為勝を占め、只今菜香へ参乃り居候間御出上下候て一興有之候就而左に一首の狂歌を述候、御馳走に御礼のいらぬ拾五円とりし角力は人のふんどしと申詠に候御一真
馨 杉助様』
堀伴成は津和野の鉱山王と呼ばれた堀家の元当主です。
杉助こと杉助右衛門は山口町人。現在の山口ふるさと伝承総合センターの地で酒造場を営んでいました。
手紙の内容は、大神宮祭礼でおこなわれた相撲に菜香亭の料理を賭けたところ、私が応援したほうが勝った。それでいま菜香亭で御馳走になっている。そこで一首「御馳走に御礼のいらぬ拾五円とりし角力は人のふんどし」(人のふんどしですもうをとる、ということわざにひっかけた歌)、というものです。
[8]十朋亭
十朋亭(じっぽうてい)は19世紀に醤油製造業で栄えた万代家の離れです。1800年頃建築されたものです。文久3年藩庁が山口に移ってからは藩の役人たちの宿泊所となり、周布政之助や久坂玄瑞などが滞在しました。
元治元年、伊藤博文と井上馨が英国留学から帰国して山口に戻った時に泊まったのが十朋亭です。二人はここから藩庁へ通い、攘夷中止を訴えました。
井上馨・三遊亭円朝寄書(山口市歴史民俗資料館所蔵)
そのときを書いたのが下記の寄書です。
「元治甲子の夏 五月の頃候伊藤とともに英国より帰て開国の献言 また旧友と議論抔なしける時 萬代氏の別室を借りて住居したりける
吾還の賀宴を古郷里にて開く為帰りし折に萬代翁過去を遂懐し三十三回にあたるとて森氏 よし富 杉氏 馨等招きて宴会を開かれ往時の話いとおもしろかりし席上にて
三十に三をくわえたむかしから
うい転変をかたる縁会
萬代翁当年七十六歳にして身たいいとすこやかなるを祝して
雪花を七十六度みすごせど
なを秋たらぬ萬代までも
馨井上伯と共に末席に在りければ三遊亭にも年賀の祝しせよとのもとめに
鶴は千代それにもまさる萬代の
翁は亀の齢なりけり
円朝
大杓子(寄書 伊藤博文・井上馨)(山口市歴史民俗資料館所蔵)
明治28年2月、万代利七は、山口町長とともに山口を代表して、日清戦争の大本営に天機伺いと、陸海軍病院に戦傷者を慰問するために、広島へ出かけました。この慰問中に伊藤博文総理大臣から、自作の漢詩を書いた広島の大杓子(しゃくし)をもらいました。
明治29年、井上馨が万代家の招待での祝宴でこのことを知り、大杓子の上部に自作の漢詩を書き加えました。
厳島風雲幾変遷(厳島の風雲は幾変遷)
天妃祠畔浪摩天(天妃の祠畔は浪天を摩す)
当年破賊英雄業(当年の賊を破りしは英雄の業)
豈啻芳名千古伝(豈[あに]啻[ただ]芳名は千古に伝はるのみならんや)
明治乙未春二月於大本営
春畝山人厳島懐古
誰恃小嶼落網羅(誰か小嶼[こじま]を恃[たの]むも網羅[もうら]に落つ)
堅城鉄壁在人和(堅城鉄壁は人の和に在り)
津頭於問当年事(頭を津[めぐら]して当年の事を問うにおいても)
唯見奔波拍岸返(唯見るは奔波[はんば]の岸に返るを拍[う]つ)
世外 馨